少なくとも暑い夏に雪が降るイメージを持っているかたは、ほとんどいないのではないでしょうか。
しかし長い歴史の中には夏に雪が降ったという記録が残っており、ホントかよと目を疑ってしまいます。
雪の鎌倉大仏(撮影は冬)
そこで今回は鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』より、夏に雪が降った記録を紹介。果たして本当なんでしょうか。
■夏の降雪記録①常陸国にて
酉尅。常陸國關郡仁木奈利郷白雪降。則休止云々。【読み】酉尅(とりのこく)。常陸國(ひたちのくに)の關郡(せきのこおり)の仁木奈利郷(にきなりのさと/ごう)に白雪(はくせつ)降る。則休止(すなわちやめり)と云々(うんぬん)。
※『吾妻鏡』寳治2年(1248年)6月小15日辛夘
【意訳】午後18:00ごろ、現代の茨城県下館市二木成の辺りで白い雪が降ったが、すぐにやんだそうな。
■夏の降雪記録②鎌倉・乱橋でも
寅尅。濫橋邊一許町以下南雪降。【読み】寅尅(とらのこく)。濫橋(みだればし)の邊(へ)より一許町(いっちょうばかり)以下南(みなみへもってくだり)雪降る。其邊(そのへの)如霜(しものごとし)と云々(うんぬん)。其邊如霜云々。
※『吾妻鏡』寳治2年(1248年)6月小18日甲午
【意訳】明け方午前4:00ごろ、乱橋(鎌倉市材木座)から南に一町(約100メートル)ばかりの範囲で雪が降った。霜が下りたように真っ白くなったそうな。
■夏の降雪記録③場所は不明
天霽。風少。今夕雪下。……(以下略)……【読み】天霽(そらはるる)。風少(かぜすくなし)。今夕(このゆうに)雪下(ゆきふる)。
※『吾妻鏡』建長3年(1251年)8月小3日辛卯
【意訳】晴れ。風は穏やか。夕方になって雪が降った。
以上『吾妻鏡』より夏の降雪記録3例を紹介しました。旧暦の6月は新暦のおよそ7月、旧暦の8月は新暦のおよそ9月になります。
■いくら冷夏だったとしても……
地球温暖化が懸念される21世紀ですが、13世紀の鎌倉時代が、夏に雪が降るほど極端に寒かった訳ではありません。
でも、雪が降ったと言っている以上は何かがあったはずです(完全なウソでない限り)。
鎌倉時代の夏に雪が降ったのはなぜなのか?あるいは文章の読み違えなど、さまざまな可能性を考えてみましょう。
■仮説①何かを雪と間違えた?

道路に塩でも撒いた?(イメージ)
夏に雪が降ったというのは、何かの勘違いだった……可能性について考えてみます。
降雪記録の①は鎌倉から見て遠方なので、現地からやってきた者の噂話をそのまま収録したのかも知れません。
パッと見て雪と間違えそうなもの。白くて粒が細かいもの……塩?灰?白粉?石灰?
そんなものが何かの拍子にばら撒かれて、雪のように舞い散ったのでしょうか。
じっくり見れば雪と勘違いなどしないでしょうが、パッと見て通り過ぎて、それを雪と報告したのかも知れません。
また降雪記録の②は塩かな?と思いました。お清めなどの目的で撒かれた塩は、朝になる前に水で流されたのでしょうか。
■仮説②雪下は地名かも?

三嶋新宮の神事(イメージ)
降雪記録③は雪と関係なさそうな後半文章を略しましたが、これを全文見てみます。
天霽。風少。今夕雪下。及三嶋新宮遷宮之義。陪從。御神樂。有童舞延年等云云。この「今夕雪下」は「今日の夕方に雪が降った」という意味ではなく、「今日の夕方、雪ノ下で……(以下続く)……」という意味なのかも知れません。
※『吾妻鏡』建長3年(1251年)8月小3日辛卯
雪ノ下は現代の鎌倉市にもある地名(大字)で、雪を貯えておく雪室(ゆきむろ)があったためにそう呼ばれたと伝わっています(諸説あり)。
かつて源頼朝公が夏の暑さをしのぐために、各地から雪を運ばせ、地下室に貯えたそうです。
それで本題に戻ると、鎌倉の雪ノ下に鎮座する三嶋新宮で遷宮神事が行われた……そう解釈できるかも知れません。
■仮説③雪室の雪が捨てられた?
もし地面や路上などに雪がばら撒かれて、それを後から見た人が「雪が降った」と勘違いした可能性はどうでしょうか。
それならどっからどう見ても雪ですし、降雪記録②ならばら撒いているところを人が見つける確率は低そうですね。
降雪記録①と③については難しいでしょうし、降雪記録②にしてもなぜわざわざ乱橋に?という疑問は残ります。
あれこれ考えても今のところ決め手はないため、今回はこのくらいにしておきましょう。
もしかしたら、本当に鎌倉時代の夏は雪が降るほど寒い異常気象に襲われたのかも知れませんね。
■終わりに
今回は鎌倉幕府の公式記録『吾妻鏡』より、夏の降雪記録について紹介してきました。
筆者も鎌倉に永年住んでいますが、夏にそこまで寒かった記憶はありません。
もし本当に異常気象だとしたら、鎌倉の上空でいったい何が起こっていたのか……今後の究明がまたれますね!
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