まず、戦国時代を天下統一へと推し進めていった、おなじみの三人の武将についておさらいしてみましょう。
三英傑(織田信長、豊臣秀吉、徳川家康)
相対的には戦国大名の中では間違いなく実力ナンバーワンであり、それまでの戦国大名が成し遂げられなかった広大な版図を手中に収めて戦国の覇者となった織田信長。
信長は革新的な戦術や鉄砲の導入などで戦場を席巻し、天下統一への布石を打ちました。例えば、桶狭間の戦いでは少数の兵力で今川義元を打ち破るなど、驚異的な戦果を上げました。
そして、その後を継いで天下統一を成し遂げたのが豊臣秀吉です。
秀吉は、農民から身を起こし、驚異的な出世を果たしました。秀吉は兵農分離を進めるとともに、刀狩りや検地を実施して領地支配を確立しました。
その死後、豊臣家を滅ぼして太平の世への足掛かりを作ったのが徳川家康です。家康は、関ヶ原の戦いで石田三成らを破り、江戸幕府を開くことで約260年続く平和な時代、江戸時代の礎を築きました。
ここまでは日本史好きの人には言うまでもない情報ですが、ここでクエスチョンです。
この、戦国の三英傑とも呼ばれる三人は、生まれたときの身分も性格もまるで異なりますが、唯一の共通点は、今でいう東海地方の出身であることです。
なぜ、この地方の出身者だけが天下をとれたのでしょうか?
■なぜ上杉・島津は天下統一に手が届かなかったか
京都により近い地域にも有力武将はいました。ところが、彼らは天下をとることはできなかったのです。
その理由は、都に近すぎたために、足利幕府や朝廷の無力さを知りすぎていたことがあげられます。
つまり、朝廷や幕府の権威を借りて天下をとるという発想に至らなかったのです。
また、都に近い地域では商人や農民も情報を豊富に持っていて、なかなか領主の言いなりにならなかったため、富を蓄えるのが難しかったと言えるでしょう。
では、都から遠く離れた地域はどうでしょうか。
越後の上杉謙信や薩摩の島津氏など、遠方にも有力な武将はいましたが、彼らも天下には届きませんでした。

上杉謙信像
遠方すぎて情報が不足していたこと、また産業が未発達で財力に乏しかったことがその理由としてあげられます。
上杉謙信は軍神と称されるほどの戦術家でしたが、財力の不足からくる兵站の限界がありました。
島津氏も独自の戦術で有名でしたが、地理的に孤立していたために情報網が脆弱でした。
■さまざまな「地の利」
その点、都からほどほどに離れていた東海地域は、情報は適度に入ってきたし、産業も発達しつつあってそれなりの財力もあるなど、バランスのとれた地域だったといえます。

島津義弘像
この地域はまた、交通の要所であり、多くの物資と情報が集まる場所でもありました。それが、彼らの成功を後押しした要因の一つだったのです。
信長、秀吉、家康の三人の覇者がいずれも東海地域出身なのは偶然ではなく、なかば必然だったといえそうです。
戦国時代の合戦で「地の利」を得た武将が有利だったのは言うまでもありませんが、彼らもまた、こうした意味での「地の利」を最初から持ち合わせていたのです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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