遊びせむとや生(む)まれけむ……という一節で有名な『梁塵秘抄りょうじんひしょう)』。後白河院(後白河法皇)がまとめた今様集(当代の俗謡集)として知られます。
戯(たはぶ)れせむとや生まれけん
遊ぶ子供の声聞けば
我が身さへこそ揺るがるれ
【意訳】私は遊ぶために生まれてきた。戯れることこそ生き甲斐だ。子供が楽しく遊んでいる声を聞くと、もうどうにも我慢できない!
今回はそんな『梁塵秘抄』の中から、心に残ったいくつかの歌を紹介したいと思います。
■君が代は……
(一)そよ 君が代は 千代に一度(ひとたび) ゐる塵の国歌「君が代」に通じる「君が代」シリーズの1バリエーションですね。
白雲かかる 山となるまで
※『梁塵秘抄』巻第一
【意訳】あなたの幸せが「一千世代に一粒だけつもる塵が積もり積もって、白雲がかかる山となるまで」ずっと続きますように。
一世代20年として、また塵一粒が1グラムとして、それが山になるにはどのくらいの年月を要するのでしょうか。
■後白河院も大好き!サイコロ博打について
イカサマがバレて無一文に(イメージ)
(一七)博打の好むもの 平骰子(ひょうさい) 鉄骰子(かなさい) 四三骰子(しそうさい)……平骰子と鉄骰子については不明。サイコロ博打の一種なのか、あるいはイカサマ用のサイコロでしょうか。
それをば誰をか打ち得たる 文三(もんさん) 刑三(ぎょうさん) 月々清次とか
※『梁塵秘抄』巻第一
【意訳】博打打ちは平骰子と鉄骰子と四三骰子を好む。
骰子博打の名人と言えば、文三こと文三大夫定成(もんさんたいふの さだなり)と、刑三こと別当刑部佐頼(べっとうぎょうぶの すけより)。そして月々清次(つきづきせいじ)などが挙げられるだろう。
四三骰子とは、サイコロを2つ振って4と3の目が出た状態。
かつて後一条天皇が側近に「四三の目が出たら五位(位階)を授ける」と宣言。果たして側近が四三の目を出したため、五位を与えられた故事があります(『下学集』)。
続く人名(二つ名)は当時有名だった博打打ちたち(『二中歴』)。それぞれのエピソードも興味深いですね。
■極楽浄土は意外と近くに
(一七五)極楽浄土は一所(ひとところ) 勤めなければ程通遠し……真面目に勤めれば、すぐにも達することができる極楽浄土。
われらが心の愚かにて 近きを遠しと思ふなり
※『梁塵秘抄』巻第二
【意訳】極楽浄土は一箇所にしかない。だから日頃から精進しなければ、とても達することはできない。
しかし我々の心は愚かなので、本当はすぐ近くであるのに、遠いと思い込んで修行を怠けてしまうのだ。
しかし私たちが勝手に縁遠いものと決めつけ、修行を怠けてしまうために、そのまま遠くなってしまうのです。
つまり極楽浄土は近い遠いではなく、努力するかしないかの違いに過ぎません。これは何にでも通じる真理でしょう。
■誰もが仏となれるのに……

日々精進(イメージ)
(二三二)仏も昔は人なりき われらも終には仏なり……これも極楽浄土のたとえに近いですね。
三身仏性具せる身と 知らざりけるこそあはれなり
※『梁塵秘抄』巻第二
【意訳】仏様だって、かつては私たちと同じ人間だった。私たちだって、死ねば仏となるのだ。
元から仏性(仏となる資質)を備えているのに、そうと知らず怠けてばかりいる私たちは、何と愚かしいことだろうか。
誰もが仏となれるのに、そうと知らず、あるいはなれぬと決めつけて怠ける言い訳にする。
自分で自分の可能性を封じてしまうとは、実にもったいないことではないでしょうか。
■熊野詣での最短ルートは?
(二五六)熊野へ参るには 紀路と伊勢路のどれ近し どれ遠し……いやいや、どちらも遠く険しいでしょう。という話ではなく、やはり「最初から遠いと諦めないで進んで行けば、必ず到達できる」という教えです。
広大慈悲の道なれば 紀路も伊勢路も遠からず
※『梁塵秘抄』巻第二
【意訳】熊野詣での道のりは、紀州ルートと伊勢ルートのどちらが近いだろうか?遠いだろうか?
仏の救いを求める道なのだから、どちらから行っても遠くはなかろう。
紀州がよいか伊勢がよいかなど考えず、まずはゆくのだ。そんな心意気が伝わりますね。ませんか?
■愛でたき舞、をかしき舞

趣き深い蟷螂の舞(イメージ)
(三三○)よくよくめでたく舞うものは 巫(こうなぎ) 小楢葉 車の筒(どう)とかや やちくま
侏儒舞(ひきまい) 手傀儡(てくぐつ) 花の園には蝶 小鳥
※『梁塵秘抄』巻第二
【意訳】愛でたくなる舞と言えば、巫女と小楢の葉、車の筒に「やちくま」であろう。
また侏儒舞に手傀儡、花園に舞う蝶や小鳥も愛でたくなるものだ。
(三三一)をかしく舞ふものは 巫 小楢葉 車の筒とかや 平等院なる水車 囃せば舞ひ出づる蟷螂(いぼうじり) 蝸牛(かたつむり)……愛でたくなる舞と、趣き深い舞を列挙しながら、どちらにも共通するものとして
※『梁塵秘抄』巻第二
【意訳】趣き深く舞うものと言えば、巫女と小楢の葉、車の筒。
他にも平等院の水車、蟷螂や蝸牛の舞う姿も趣き深い。
(1)お神楽の巫女舞
(2)風に舞い散るコナラの葉
(3)牛車の車輪中央部(車軸を通す部分)
を挙げています。車の筒とは、なかなかマニアックですね。
「やちくま」については諸説あり、多くの独楽を一度に回す八千独楽(やちこま)や、八玉(やつたま。お手玉)の訛りなどと考えられています(『新猿楽記』)。侏儒舞とは小人の舞、手傀儡とはパペットでしょうか。
平等院の水車とは、境内にあったのか、それとも近くにあったのかは分かりません。
この水車について、藤原定頼(さだより。藤原公任の子)がこんな歌を詠んでいます。
世のなかをうぢの川辺の水車 かへるをみるに袖のぬれつつ宇治は「憂(う)じ」にかけ、返るは裏切る(態度を返す)意味、そして袖が濡れるのは涙ゆえ。
【意訳】憂いの多い世の中は、まるで宇治=平等院にある水車のようだ。常に回って水をはね上げるから、近くで見ていると袖が濡れてしまう。
つまり裏切りの多さに、涙で袖を濡らす者が絶えない世の中を憂えているのです。
そして蟷螂を「いぼうじり」と読むのは、カマキリに疣(いぼ)を刈らせる(鎌で撫でさせる)と治りがよいという俗信に基づきます。
これらはいずれも愛でたく、また趣き深い舞と言えるでしょう。そういう感性でした。
■女の怨みと浮気男の言い分

浮気男を呪う女(イメージ)
(三三九)われを頼めて来ぬ男 角三つ生ひたる鬼になれ
さて人に疎まれよ 霜 雪 霰 降る水田の鳥となれ さて足冷たかれ
池の浮草となりねかし と揺りかう揺り揺られ歩け
※『梁塵秘抄』巻第二
【意訳】私をその気にさせておきながら、その後まったく音沙汰のないあの男が、角三本の鬼になってしまえばいいのに。そして人から嫌われるがいい。
あるいは冬の冷たい田んぼの水に足を漬ける水鳥になってしまえ。霜が降り、雪や霰が降りしきる中、足が凍えることだろう。
あるいは池の水草となり、風の吹くままどこにも安住できずに彷徨い歩くのがお似合いだ!
(三四二)美女(びんぢょう)うち見れば 一本葛(ひともとかづら)にもなりなばやとぞ思ふ……浮気男に対する女の怨みと、浮気男の言い分が実に業深く表れています。
本より末まで縒らればや 切るとも刻むとも 離れがたきはわが宿世(すくせ)
※『梁塵秘抄』巻第二
【意訳】美女を見るたび、私は葛の蔦(つた)になりたいと思う。
美女という樹の根元から枝先まで、びっしりと絡みつきたい。たとえ切り刻まれる末路をたどろうとも、離れることが出来ないのは私の宿業なのだ。
女の恐ろしさはもちろんのこと、男の執着ぶりもかなり恐ろしいものです。
どちらもなかなか理解に苦しみますが、当人らは他人の解しがたい懊悩を抱えているのでしょう。
■終わりに

後白河院(画像:Wikipedia)
まだまだ『梁塵秘抄』には続きがありますが、また別の機会に紹介できればと思います。
仏の教えを説いているのかと思いきや、人間の宿業を謡うものもあり、当時の人々も色んなテーマを謡っていたのですね。
皆さんも『梁塵秘抄』を読んでみると、お気に入りの謡が見つかるかも知れません。
※参考文献:
- 植木朝子 編『梁塵秘抄 ビギナーズ・クラシックス 日本の古典』角川ソフィア文庫、2014年5月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan