主人公の蔦重こと蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう。
今回はそんな一人・狂歌師の朱楽菅江(あけら かんこう)を紹介。果たしてどんな人物だったのか、その生涯をたどってみたいと思います。
■多くの名前を使いこなす?
宿屋飯盛 撰『吾妻曲狂歌文庫』より、朱楽菅江(左)
朱楽菅江は元文5年(1740年)10月24日に誕生(元文3・1738年生まれ説もあり)。元は先手組の与力でした。
本名は山崎景基(やまさき かげもと)、後に山崎景貫(かげつら)と改名。通称は郷助(ごうすけ)、字を道甫(どうふ/どうほ)と称しています。
朱楽菅江(または朱楽漢江)という名前は狂歌師としての号(狂名・狂号)で、音の通り「あっけらかん」のもじったものです。
他にも俳号に貫立(かんりゅう)、戯作者としては朱楽館主人(あけらかんしゅじん)。別号に准南堂(わいなんどう)・芬陀利華庵(ふんだりげあん)などと名乗りました。
最後の芬陀利華庵とは「踏んだり蹴ったり」をもじったものと思われます。
それにしても、こんなにいっぱい考えついて、すべて使いこなせたのでしょうか。
※以下、朱楽菅江で統一します。
■狂歌師として夫婦で活躍
喜多川歌麿 画『絵本江戸爵』
狂歌師として活躍した朱楽菅江ですが、はじめは内山賀邸(うちやま がてい)に和歌を学びました。やはり基本は大事ですからね。
やがて俳諧も学び、俳諧の中でも言葉遊びの要素が強い雑俳(ざっぱい)にも親しみました。
狂歌に目覚めたのは安永年間(1772~1781年)の初期ごろ。同門の大田南畝(おおた なんぽ)、唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)、平秩東作(へづつ とうさく)らと活動を開始します。
また妻の節松嫁々(ふしまつのかか。幕臣・小宮山昌俊女。実名ちか、通称まつ)と組んで朱楽連(菅江連)を結成。狂歌ブームの一助となりました。
『万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)』天明3年(1783年)
『故混馬鹿集(ここんばかしゅう)』天明5年(1785年)
『狂言鶯蛙集(きょうげんおうあしゅう)』天明5年(1785年)
『絵本江戸爵(えほんえどすずめ)』天明6年(1786年)
『軽口鸚鵡盃(かるくちおうむのさかずき)』天明8年(1788年)
『八重垣縁結(やゑがきのえんむすび)』天明8年(1788年)
『潮干のつと(しおひのつと)』寛政元年(1789年)
『狂歌大体(きょうかだいたい)』寛政3年(1791年)
当初は狂歌界を牽引する存在でしたが、次第に和歌へと回帰。著作『狂歌大体』は自分たちが確立した狂歌の作法をまとめたもので、一定の成果を残しています。
■戯作・川柳でも活躍
数々の作品を遺した朱楽菅江(イメージ)
また朱楽菅江は大田南畝に触発され、戯作者としても筆を奮いました。
『売花新駅(ばいかしんえき)』安永6年(1777年)
『大抵御覧(たいていごらん)』安永8年(1779年)
『雑文穿袋(ざつもんせんてい)』安永8年(1779年)
ほか川柳にも才覚を現し、牛込蓬莱連(うしごめほうらいれん)に参加。『川傍柳(かわぞいやなぎ)』の出版に協力し、初編に19句、二編には15句が採録されました。
■終わりに
狂歌・戯作・川柳とマルチな才能を開花させた朱楽菅江。寛政10年(1799年)12月12日に世を去ります。
果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」ではどのように描かれるのか、今から楽しみですね!
※参考文献:
- 『日本古典文学大辞典簡約版』岩波書店、1986年12月
- 『コンサイス日本人名辞典 第5版』三省堂、2009年1月
- 岡本勝ら『新版近世文学研究事典』おうふう、2006年2月
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan
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