令和7年(2025年)も幕を開け、NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」に注目が集まる今日このごろ。

主人公の蔦屋重三郎(つたや じゅうざぶろう。
横浜流星)が「江戸のメディア王」となるまでを描く本作では、江戸時代を彩る様々な文化人が登場します。

今回は狂歌界を牽引した唐衣橘洲(からごろも きっしゅう)を紹介。果たして彼は何者なのでしょうか。

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■狂歌の三大家に

【大河べらぼう】天明の狂歌界を牽引!狂歌の三大家のひとり「唐衣橘洲」とは何者?その生涯をたどる


『吾妻曲狂歌文庫』より、唐衣橘洲。画は山東京伝

唐衣橘洲は寛保3年(1744年)12月4日に幕臣の子として誕生しました。

本名は小島恭従(こじま やすつぐ。のち小島謙之)、通称は源之助(げんのすけ)。字を温之(あつゆき/おんし)と称し、酔竹園(すいちくえん)という別号も持っていました。よほど酒が好きだったのでしょうか。

江戸四谷忍原横町に居を構え、内山賀邸(うちやま がてい)に和学と漢学、萩原宗固(はぎわら そうこ)に和歌を学びました。

やがて風刺や諧謔に富んだ狂歌への興味が高まり、明和6年(1769年)に同門の大田南畝(おおた なんぽ)や平秩東作(へづつ とうさく)らと狂歌会を開きます。

翌明和7年(1770年)には明和十五番狂歌合(めいわじゅうごばんきょうかあわせ)を開催。
和歌の師匠である賀邸と宗固も判者(審判)として参加、大いに盛り上がりました。

これを契機として狂歌の知名度が高まり、狂歌師が世に広まるキッカケとなります。

狂歌の先駆者として活躍すること十数年。唐衣橘洲は大田南畝・朱楽菅江(あけら かんこう)と並ぶ狂歌の三大家とされました。

唐衣橘洲は風刺や諧謔を効かせつつも、温雅な作風で多くのファンを獲得したそうです。

■一度は狂歌界から遠ざかる

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盟友そしてライバルだった大田南畝。鳥文斎栄之筆

しかし狂歌人気の高まりと共に、先駆者同士の対立も浮き彫りとなっていきます。

ジャンルが盛り上がるとよく起こる「ウチが元祖だ」「こっちが本家だ」的な争いですね。

唐衣橘洲は盟友の大田南畝と対立。自身の選書『狂歌若葉集(きょうかわかばしゅう)』が大田南畝の『万載狂歌集(まんざいきょうかしゅう)』に圧倒されたショックゆえか、天明3年(1783年)ごろに狂歌界から遠ざかってしまいます。

それでも狂歌の魅力を捨て去ることはできず、天明5年(1785年)に『俳優風(わざおぎぶり)』『夷歌百鬼夜狂(いかひゃっきやきょう)』で華麗なカムバックを果たしました。

また寛政2年(1790年)には『狂歌初心抄(きょうかしょしんしょう)』、寛政12年(1800年)には『狂歌うひまなび(初学)』を刊行します。


これらの書籍はタイトルどおり、これから狂歌を学ぶ人はもちろん、ベテランも初心に立ち返るためのテキストでした。

後進の育成にも力を入れながら、享和2年(1802年)7月18日に亡くなるまで狂歌界の重鎮として存在感を失わなかったそうです。

■終わりに

今回は狂歌の三大家として知られる唐衣橘洲について、その生涯をたどってきました。

果たしてNHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華之夢噺~」では、どのような活躍が描かれるのでしょうか。今から楽しみですね!

※参考文献:

  • 岡本勝ら『新版近世文学研究事典』おうふう、2006年2月

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