室町時代は、各地に守護大名と呼ばれる大名たちがいました。しかし、彼らの全てがいわゆる戦国大名になれたわけではありません。
まずはそもそも守護大名と戦国大名の違いですが、最も大きな違いは幕府からの自立を志向していたかどうかです。自立心があったかどうか、ということですね。
また守護大名は、室町幕府の権威を利用する形で領国を支配していましたが、戦国大名は室町幕府からの自立を図るために自ら田畑の面積と収穫量を調査し(検地)、年貢を決定していました。
守護大名・肥後細川家の家紋(Wikipediaより)
もともと、こうした調査は土地の所有者が自発的に調査結果を報告するだけのものでした。しかし戦国大名の場合、家臣が奉行として直接調査していました。
こうした、幕府の権威によらず領国を支配しようとする傾向は、法制の面でも見てとれます。戦国大名は、領国内のみ通用する分国法を定めていました。
分国法という言葉は教科書で学んだ人も多いでしょう。室町幕府は全国に適用する法を制定していましたが、戦国大名はそれを否定し、自ら制定した分国法に基づいて領国を支配しようとしたのです。
そしてこの分国法は、家臣に適用されたばかりでなく大名自身も遵守しました。権力者による強権的な支配ではなく、法治国家としての統治をめざしたのです。
■下克上による成り上がり
さて、守護大名の立場からいわゆる戦国大名へと転身した大名としては、甲斐の武田氏、駿河の今川氏、近江の六角氏、豊後の大友氏、薩摩の島津氏などがいますが、実はこうしたタイプは少数派です。

武田家の勢力を一代で築き上げた武田信玄
多くの戦国大名は、守護の家臣である守護代か、有力地侍の国人からの成り上がりでした。
このように、下の者が上の者にとってかわるのをなんと呼ぶかはご存じですね。そう、下克上です。
多くの戦国大名は守護大名の立場から穏健に転身したのではなく、下克上によって政治的実権を奪う形で成り上がっていったのです。
ところで、守護の多くが実権を奪われたのは、自分の領地に常駐していなかったことが最大の理由でした。最後にこの、守護大名が領地に常駐していなかった理由を説明します。
■形式的な権力者
守護の多くは足利一門かそれに準じる有力家臣だったため、守護であると同時に幕府の要職にも就いていました。
つまり、地方の領主的存在でありながら、中央政権にも参画していたということです。
現代に例えて言えば、県知事が国会議員や大臣を兼務していて、普段は東京にいるようなものでしょう。
地域の統治者であるはずの守護がほとんど領地にいなかったということは、実質的な権力を握るのはその留守を守る守護代です。
この守護代が、守護にとってかわり、戦国大名になるケースが多かったのです。

朝倉義景の墓所。朝倉家は守護代から戦国大名になった
さらに、守護代の臣下である武士集団のなかから頭角を現し、守護代を倒して戦国大名になった者もいます。
形式的な権力者にすぎなかった守護は、幕府の権威が失墜して秩序が乱れると、実質的な力をたちまち失ったのです。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia
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