■今も使われる「抜け駆け」という言葉

「抜け駆け」という言葉は現代でもごく普通に使われていますね。特定の集団の中で、一人だけ他人を出し抜いて先に行動し、利益を得ようとする行動のことです。


実はこの言葉は非常に古いもので、戦国時代の合戦に由来します。

抜け駆けという言葉は今でもあまり良いニュアンスで使われることは少なく、どこか「裏切り」「背信」と通じるものがありますね。

とは言っても、抜け駆けしたというだけで処罰されることは、普通はありません。

しかし戦国時代は違っていました。抜け駆けをした者は、時として命をもって償わなければならなかったのです。

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武者行列(イメージ)

今回はそんな「抜け駆け」の語源と、それにまつわる切実なエピソードをご紹介しましょう。

■明確なズル

先に述べた通り、特定の集団で一人だけ密かに人を出し抜く人・ことが「抜け駆け」ですが、これは戦国時代の合戦に由来します。

もともとは、合戦において、他の人より先にこっそり陣を抜け出して功績を立てようと敵中に攻め入ることを指す言葉だったのです。

これは明確な「ズル」でした。

戦国時代の「抜け駆け」は命懸け!?徳川家康はルールを破った家臣をどう処罰したか


しかしこうした抜け駆けは、合戦中、功名を願う武者の頭には常にちらついていたに違いありません。

後方の部隊にいる兵にとっては、一番槍や一番首の名誉にありつくのはとても無理な話です。そこで、密かに前線に出て、出先鋒より先に敵陣を襲撃するのは甘美な誘惑だったことでしょう。


しかし、こうした抜け駆け行為の難しいところは、それを実行する当人にとっても、また軍勢全体にとっても非常にリスキーだという点です。

確かに、抜け駆けが成功して敵陣が混乱すれば、勝利を収めることもできるでしょう。しかし失敗すれば、逆に自陣が切り崩され、敗北に至ることもあるのです。

そんなリスクがあるため、戦国大名のほとんどは抜け駆けを厳しく禁じていました。一人の抜け駆けを許せば軍規が緩み、その後の作戦に支障をきたすと考えたからです。



■徳川家康のケース

一例として、徳川家康は抜け駆け行為に対して厳罰で臨んでいます。

1578年(天正6)、徳川軍が、武田勝頼の軍勢と遠江掛川付近で戦ったときのことです。家臣の大須賀小吉が抜け駆けを行いました。

小吉は旗本衆よりも前に出て、軍功を挙げようとしたのです。彼は奮戦したものの、家康はこの抜け駆けを許しませんでした。

小吉のおじにあたる大須賀康高は家康の重臣で、もとは家中においてかなりの武功を挙げたことで徳川二十将の一人として数えられる人物です。

戦国時代の「抜け駆け」は命懸け!?徳川家康はルールを破った家臣をどう処罰したか


大須賀康高(Wikipediaより)

後世ではあまり目立ちませんが、実際は徳川四天王や大久保忠世・鳥居元忠らに匹敵する武功を挙げた人物だといわれています。


そんな彼がとりなしても家康の考えは変わらず、小吉は切腹させられることになりました。

当時「抜け駆け」には、こうした罰が待っていることもあったのです。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む 雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
画像:photoAC,Wikipedia

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