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なかでも、現在の東京都より南方280kmの絶海の孤島に浮かぶ八丈島は、難破船が相次ぐ非常に危険な海域に囲まれていたため、自然が生み出す脱走不可能の「天然監獄」として知られていました。
かつては関ヶ原の合戦で副将を務めた「宇喜多秀家」も流され、生涯を終えたとされる場所です。
関ヶ原の戦いで敗れた宇喜多秀家が誰よりも長生きできたのは、島流しのお陰?

今回は、そんな天然監獄からの脱走に成功した囚人「佐原喜三郎」と吉原遊廓の遊女「花鳥」を紹介します。
■金持ちのボンボン「佐原喜三郎」
佐原喜三郎は、1806年に下総国香取郡佐原村(現・千葉県香取市佐原)の百姓・本郷武右衛門の長男として生まれました。
本郷武右衛門は資産家の百姓。裕福な家庭に生まれた佐原喜三郎は、不自由ない平穏な日々を送っていました。
しかし、29歳のときに賭博で生計を立てる博徒・仁三郎を殺害。殺人事件の容疑者として身柄を拘束された佐原喜三郎は、「島流し(流刑)」を言い渡されてしまうのです。
ちなみに、佐原喜三郎が殺人を犯した動機は諸説あり、金銭トラブルや女性関係だったといわれています。
その後、絶海の孤島に浮かぶ「八丈島」へ流された佐原喜三郎。そこで、人生を変える運命の女性「花鳥」と出会うことになります。
■吉原遊廓の遊女「花鳥」
花鳥は、江戸新吉原江戸町二丁目伊兵衛店の遊女屋「しげ」で働く女郎のひとり。落語「大坂屋花鳥」にも登場しますが、そこに登場する花鳥については脚色されているため、実際には彼女の素性はほとんど判明していません。
ただし、落語のストーリー同様、自室を放火したことは事実であるとされています。
当時の江戸は建物と建物の間隔がほとんどなく、一度引火してしまうと瞬く間に火が燃え移るため消火が困難でした。そのため、放火は人殺しと同様に死刑が言い渡される大罪だったのです。
しかし、放火罪で拘束された花鳥は当時の未成年に相当する15歳未満であったため、死刑を免れて「島流し(流刑)」を言い渡されました。そして、佐原喜三郎と同じ八丈島へと流されたのです。
■出会いと脱走計画
1837年5月、佐原喜三郎が八丈島に上陸。彼は、犯罪に手を染めた武士が罪を償うために転身する「虚無僧(こむそう)」となり、島民の恵みや施しを頂戴して乞食同然の生活を送っていました。
約1年後の1838年、佐原喜三郎は放火罪で流されてきた花鳥と出会います。
花鳥は三味線が得意で、佐原喜三郎は三味線の音色に合わせて噺を語る義太夫の名手でした。共通の趣味で繋がった二人はすぐに意気投合し、同棲生活をスタート。そして、佐原喜三郎を中心とした「八丈島脱出計画」が始動したのです。
1838年7月3日、佐原喜三郎一行は漁船を盗んで島を脱出。
■その後
八丈島の脱出後、佐原喜三郎と花鳥は喜三郎の両親を頼って帰郷。実家に帰ると、父の本郷武右衛門は病に伏していましたが、息子の顔を見て涙を流して抱きしめたのだとか。
しかし、島抜け(脱走)のウワサが広まり、故郷に居られなくなった佐原喜三郎は花鳥の実家を頼って江戸へ。数ヶ月後の1838年10月3日、役人に見つかった佐原喜三郎と花鳥は再び身柄を拘束されることになります。
そして花鳥は、女性囚人を収容する監獄施設「小伝馬町女牢」へ送還され、そこで女囚人のボス的存在として横暴の限りを尽くし、死刑が確定。
佐原喜三郎は永牢(無期懲役)として監獄送りになったのち、1845年に減刑で釈放されますが、長年の牢生活が祟り結核を患って39歳でこの世を去りました。
■真の脱走者
ちなみに、佐原喜三郎や花鳥とともに八丈島を脱走したメンバーは合計で7人。うちひとりは、その後も捕まることなく逃走したままだといわれています。
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