NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」記念すべき第1回放送「ありがた山の寒がらす」では、火事の場面から幕を開けました。

時は明和9年(1772年)、蔦屋重三郎(横浜流星)23歳の出来事です。


まさに迷惑年(めいわくねん=明和九年)を象徴づけた明和の大火は、後に江戸の三大大火(ほか明暦の大火、文化の大火)として数えられるほど甚大な被害をもたらしました。

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死者約14,700名…【大河べらぼう】第1話で発生した「明和の大火」実際の犯人の末路、被害状況を解説


今回は明和の大火について、わかりやすく紹介したいと思います。

■三度にわたり江戸の街を焼き尽くす

死者約14,700名…【大河べらぼう】第1話で発生した「明和の大火」実際の犯人の末路、被害状況を解説


『目黒行人坂火事絵巻』より、火災現場の様子。

明和の大火は明和9年(1772年)2月29日、目黒の大円寺から出火しました。

※目黒行人坂(ぎょうにんざか)より出火したことから、目黒行人坂大火とも呼ばれます。

出火の原因は放火。犯人は真秀(しんしゅう)と名乗る無宿人で、僧侶の身分を偽っていたようです。

この真秀は武蔵国熊谷の出身で、14歳ごろから放火と盗みを繰り返し、親に勘当されていました。

※一度目の放火で火炙りにされなかったのでしょうか……?

今回は(も?)火事場泥棒を働こうと13:00ごろ庫裡(くり。寺院の台所。庫裏)へ放火。火の手は南西の風に煽られて麻布・京橋・日本橋から江戸城下の武家屋敷を焼き尽くします。


神田・千住方面まで延焼し、一度は小塚原あたりで鎮火しました。

しかし18:00ごろに本郷から再度出火し、駒込・根岸が火に呑み込まれてしまいます。

火消らの活躍もあり、2月30日(※旧暦はすべての月で30日が基本)の昼ごろにはどうにか鎮火。やれやれと思っていたのですが……。

翌3月1日にはくすぶっていた焼け跡から再び出火。馬喰町あたりから東へと延焼して日本橋一帯を壊滅状態に追い込んだのでした。

■放火犯の真秀が捕らわれる

死者約14,700名…【大河べらぼう】第1話で発生した「明和の大火」実際の犯人の末路、被害状況を解説


焼け残った長屋。『目黒行人坂火事絵巻』より

明和の大火における被災状況
  • 死者約14,700名
  • 行方不明者約4,060名
  • 大名屋敷169
  • 町数934
  • 橋170
  • 寺社382
    ※山王神社・神田明神・湯島天神・浅草本願寺・湯島聖堂など
ところで放火犯の真秀がどうなったかと言いますと、現場から逃亡したものの、同年4月ごろに捕縛されます。

真秀を捕らえたのは火付盗賊改方・長谷川平蔵宣雄(はせがわ へいぞう のぶかつ/のぶお)の配下。

真秀は火事場から盗んだのであろう立派な今朝を着ていましたが、その足元は皸(あかぎれ)だらけの素足でした。

その風体を怪しんだ捕手が真秀を尋問、見事捕縛に成功します。

捕らわれた真秀は6月21日に市中引き回しの上で火炙りの刑に処せられました。


この功績によって長谷川宣雄は京都西町奉行に栄転。京都への赴任は嫡男の長谷川平蔵宣以(のぶため。後の鬼平)も妻子を連れて随行します。

以上が明和の大火におけるあらましですが、その影響によって物価が高騰し、人々は暮らしの困窮を強いられてしまいました。

また同年中に水害もあり、焼かれ溺れとまったく迷惑な年となったのです。

■明和の大火・関連略年表

死者約14,700名…【大河べらぼう】第1話で発生した「明和の大火」実際の犯人の末路、被害状況を解説


火事場で活躍した火消たち(イメージ)豊原国周「東京一二伊達競」

明和9年(1772年)

【火災ここから】

2月29日 昼過ぎに目黒・大円寺より出火
同日 一度鎮火するが、宵に再出火

2月30日 昼ごろ再度鎮火する

3月1日 午前中に3度目の出火
同日中に鎮火か?

【火災ここまで】

4月ごろ 真秀が捕らわれる

6月21日 真秀が小塚原で火刑に処される

10月15日 長谷川宣雄が京都西町奉行に栄転する

11月15日 長谷川宣雄が従五位下・備中守に叙任される

11月16日 元号が明和から安永に改元される

■終わりに

今回は明和の大火について、駆け足で紹介してきました。

江戸の三大大火に数えられるだけあって、凄まじい被害でしたね。

ちなみに大河ドラマでは蔦屋重三郎が九郎助稲荷(くろすけいなり)のお社を背負い、狐(神使)をお歯黒溝(おはぐろどぶ)に沈めていましたが、恐らく大河ドラマの創作と思われます。

※狐を沈めるついでに、お社も沈めておけば避難しやすかっただろうに……今さら野暮は言いません。

これからも蔦屋重三郎が駆け抜けた時代の、様々な事件を紹介していきます!

※参考文献:

  • 『蔦屋重三郎とその時代』ダイアマガジン、2024年12月

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