戦車というと、第一次世界大戦以降に登場した近代兵器で、ヨーロッパが世界史上最も早く考案したというイメージがありますね。
しかし実は、その原型のようなものならすでに日本の戦国時代に登場しています。
加藤清正(Wikipediaより)
亀甲車は「亀ノ甲」とも呼ばれたもので、文禄の役における第二次晋州城攻略戦に登場しています。中国の兵法書を基に造られた、丈夫な木と牛皮を使った素朴な戦車でした。
どのようなものだったのかというと、厚みのある巨大な木箱を牛の皮で覆い、その内部に数人の兵士が入り、僅かに開けられた穴から鉄砲を撃つというものでした。
戦車本体を動かしたのは鎧をつけた牛でしたから、ゆっくり前進する戦車だったのでしょう。
『絵本太閤記』という書物でもこの亀甲車の挿絵を見ることができますが、現代人の私たちがイメージする戦車というよりも、やや大きめの牛車といった方がいいかも知れません。
■亀甲車の活躍ぶり
いずれにせよ、牛に曳かせている以上、亀甲車は平地でしか使用できません。そこが大きな弱点で、そのため山がちな日本ではあまり使い物にならず、普及することはありませんでした。
また木製ということもあり、朝鮮の城兵が柴草に油をかけたものを投下すると焼けてしまったという記録もあります。
一応、耐火性についてはその後改良されており、数枚の生の牛皮を重ねて覆い、耐火性を強化したもので再び城攻めに使われました。
この時使われた三両の亀甲車は、かなり大きな敵方の城砦を攻め落とすのに役に立ったようです。
余談ですが、亀甲車の寸法などがどれくらいだったのかという文献は残っていません。

うわじま牛鬼まつりの牛鬼
しかし、愛媛県宇和島地方に伝わる「牛鬼祭り」に使う牛鬼という山車は、この時の亀甲車を真似たものだという説もあります。
■幕末に復活?
その後、日本ではしばらくの間戦車が活躍することはありませんでした。先述の通り、地形的にあまり使えなかったのと、江戸時代になると戦そのものがなくなっていったからです。
ただ、幕末になると再び戦車製作の機運が高まり、鉄製の戦車である安神車が製作されています。造らせたのは水戸藩の徳川斉昭で、攘夷戦に備えて自ら考案したのでした。

水戸城の徳川斉昭像
構造としては、鉄板で上部と四囲をかこんで中に一人が入り、中から小銃が発射できるようになっています。これを車に乗せてやっぱり牛に曳かせ、さらに人間が力添えすることで進退できるという構造でした。
しかし、この安神車も木製の亀甲車が鉄製になったくらいで、牛車に毛が生えた程度のものだったと言えるかも知れません。とても実戦に耐えられるものではありませんでした。
参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む 雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社
水戸市
画像:photoAC,Wikipedia
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