吉原細見の改を通じて、蔦屋重三郎(横浜流星)に出版の可能性を伝えた鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)。

海賊版の偽造・販売…鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)が没落した”重...の画像はこちら >>


大河ドラマ「べらぼう」公式ホームページより ©NHK

はじめは上手く利用していながら、蔦重が『一目千本』でヒットを飛ばすと、やがてライバル視するようになりました。


そして西村屋与八(西村まさ彦)とグルになって蔦重をはめ、『雛形若菜初模様』では株仲間でないことを理由に蔦重を締め出し、まんまと手柄と利益を奪ったのです。

西村屋与八については以下の記事をご覧ください。

史実でも蔦屋重三郎とはライバル関係!版元・西村屋与八(西村まさ彦)とはどんな人物だったのか【大河べらぼう】
海賊版の偽造・販売…鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)が没落した”重版事件”とは?【大河べらぼう】


このままでは本屋になれないため、蔦重は暖簾分けを目指して、孫兵衛のお抱え改として奉公することに。

かくして蔦重が膝を屈した?ような形となりましたが、栄枯盛衰は世の習い。いつまでもこのままではありません。

という訳で、今回は鱗形屋孫兵衛が没落した重版事件を紹介。NHK大河ドラマ「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~」の予習にどうぞ。

■一回目は何とか示談に

海賊版の偽造・販売…鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)が没落した”重版事件”とは?【大河べらぼう】


手代の不始末にしてやられた孫兵衛(イメージ)

時は安永4年(1775年)、鱗形屋の手代である藤八(とうはち)が、大阪の板元・柏原与左衛門(かしわら よざゑもん)が出版していた『早引節用集(はやびきせつようしゅう)』の重版に手を染めてしまいました。

現代とは意味が異なり、当時の重版とは海賊版の偽造・販売を差します。

もちろん重版はご法度で、類版(似たような内容の出版)ともども、かねて禁令が出されていました。

藤八は『新増節用集(しんぞうせつようしゅう)』とタイトルだけ変えて発売。

これに気づいた与左衛門が怒らないはずはありません。


第5回放送「蔦に唐丸因果の蔓」劇中、尾張熱田の古本屋で怒りに震えていた男が与左衛門です。

この時は書物問屋の須原屋市兵衛(里見浩太朗)が仲裁に入り、何とか示談となりました。

しかし事件はこれで終わらなかったのです。

■一度ならず二度までも

海賊版の偽造・販売…鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)が没落した”重版事件”とは?【大河べらぼう】


「もうお詫びのしようもございません」平謝りするばかり(イメージ)

時は流れて安永6年(1777年)、今度は使用人の徳兵衛(とくべゑ)が『新増節用集』を重版しました。

……ねぇ、バレないと思ったの?まったく同じ書名って……むしろ鱗形屋への嫌がらせですか?にしては身体を張っていますが……。

流石に短期間で二度目は示談では収まりません。

徳兵衛はお白洲に引き出され、江戸十里四方の所払いと家財缺所が言い渡されました。

所払いとは追放刑、江戸十里四方とは江戸城を中心に、半径5里(約20キロ)圏内の出入りを禁じられます。

家財缺所(~けっしょ。欠所)とは全財産の没収。かなり重い刑罰でした。

もちろん徳兵衛の主人である孫兵衛も監督不行届の連帯責任を免れません。


過料に処せられるより重かったのは、本屋仲間や社会の信頼を失うことでした。

この事件をキッカケに、鱗形屋の出版業は大打撃を受けます。

安永6年(1777年)から安永7年(1778年)までは何とか12種の黄表紙を出版していたものの、安永8年(1779年)には6種まで落ち込みました。

そして安永9年(1780年)にはとうとうゼロになってしまったのです。

■終わりに

海賊版の偽造・販売…鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)が没落した”重版事件”とは?【大河べらぼう】


鱗形屋の没落で、運が向いてきた?蔦屋重三郎(イメージ)

かくして三代にわたり江戸の出版業界を支えた鱗形屋は、主力商品であった吉原細見の版権まで蔦屋重三郎に奪われ、見る影もなく衰亡していきました。

盛者必衰とはまさにこのこと、後進の蔦重にお株を奪われた孫兵衛の胸中は察するに余りあります。

果たして大河ドラマではこのエピソードがどのように描かれていくのか、固唾を飲んで見守りましょう!

※参考文献:

  • 今田洋三『江戸の本屋さん 近世文化史の側面』NHKブックス、1977年1月
  • 松木寛『蔦屋重三郎 江戸芸術の演出者』講談社、2002年9月

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