葛飾北斎の娘・葛飾応為(かつしかおうい)
あの葛飾北斎の娘の葛飾応為は、浮世絵師としての実力はかなりのものでした。脳卒中で倒れた父・北斎の作品制作を手伝っていたとか。
北斎の娘・葛飾応為の名作「吉原格子先之図」の魅力【前編】

当時、応為は離縁して実家に戻っていたのです。どうして離縁したのかって?はっきりとした事情はわかりませんが、応為は家事が苦手で、料理もやらなかったそう。
さらに片付けも苦手で、酒とタバコが大好き。この性格というか生活スタイルが、結婚には向かなかったのかもしれませんね…。
でも、商家や武家の娘たちに絵を教えたり、父をいたわったりと、ぶっきらぼうだけど心優しい性格なのです。
画家・平田玉蘊
江戸後期の四条派の画家・平田玉蘊(ぎょくうん)は、20代半ばの頃、歴史家の頼山陽を愛し、京都を活動の拠点にする頼山陽を追いかけ京都に向かうものの、結婚が実現することはありませんでした。
地元・尾道に帰ってきた玉蘊を待ち構えていたのは、地元での根も葉もない様々なうわさでした。さぞかしつらかったと思いますが、絵を描く仕事で生きていくことを決意します。
そして妹の長男を養子にして後継者として育成したのです。ちなみに頼山陽は女流画家の江馬細香(さいこう)とも恋愛関係になっていたので、もし玉蘊が結婚していたら色々苦労させられていたかも…。
医師・楠本いね
ドイツ人医師・シーボルトと長崎の遊女・お瀧の子だった楠本いねは医師でしたが、決して華やかな人生ではありませんでした。
「紫陽花」の学名に愛する日本人女性の名を付けたシーボルトの愛情深いエピソード


むしろ、茨の道そのもの。父親のシーボルトは日本地図の国外持ち出しで日本追放になったので、瀧といねは周囲から冷たい目で見られることになりました。
縁談もなく独りで生きていくために、女医として修業を始めます。父親が信頼していた門弟の二宮敬作を訪ね、医術を学びました。
ところが二宮敬作は外科医だったので、女医として生きていくには産科の方が良いのでは、と父の門人である岡山の産科医・石井宗謙を訪ねます。
ここで予期せぬことが起こり、なんと酔っぱらった石井に無理やり犯されてしまい、妊娠してしまいました。なんて壮絶な人生…。
そして彼女は娘を産んで、1人で育てるために長崎に戻ります。その後長崎でようやく産科医を開業し、開国後には追放処分が解かれたシーボルトと日本で再会できたのです。
3人の女性は、それぞれ道は違うけれど、波瀾万丈な生活には違いありません。彼女たちの活躍によって励まされた女性たちは、きっと多かったのではないでしょうか。
参考文献:江戸のヒロインたち
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan