何が優れていたかというと後の時代に大きく影響を与えた思想となる尊王論と海防論の先駆者となった点でした。
そんな3人を今回は紹介したいと思います。
外国の脅威に備えて海防論を説いた林子平
まず1人目は経世論家の林子平です。
林子平肖像:wikipediaより
子平は元文3年(1738)に幕臣の次男として産まれますが、父が浪人になってしまい流浪の身となります。
その後は兄が仙台藩に仕えることになり、仙台藩士として生活していくことになります。
子平はこの頃に松前から長崎まで全国巡りを行い、大槻玄沢(おおつきげんたく)や工藤平助(くどうへいすけ)などの多くの洋学者と交友関係を持ちました。
彼らを通じて海外事情を学んだ子平はロシアの南下政策に脅威を抱き、天文5年(1785)に『三国通覧図説』、天文7年(1787)に『海国兵談』を著しました。
特に『海国兵談』は日本を海外から守るため、海軍の充実化と沿岸砲台の設置の必要性を説いた書物でしたが、寛政の改革で『三国通覧図説』と共に発禁、版木の没収の処分を受けてしまいます。
それでも諦めずに写本を作りますが、最終的には仙台へ強制的に戻され、謹慎処分を受けます。
その後、寛政5年(1739)に56歳で亡くなります。
子平が説いた海防の必要性は幕末になってようやく理解され、台場の砲台の設置に一役買い、幕末海防論の起点となりました。
吉田松陰に影響を与えた尊王家、高山彦九郎
2人目は尊王思想家の高山彦九郎です。

彦九郎は延享4年(1747)に産まれました。
次男だったので自由気ままに過ごしていた13歳の時に『太平記』を読んだことがきっかけで勤王思想に目覚め、18歳の時に家を飛び出します。
全国を練り歩いて勤王論を説いて周りました。その途中で林子平や上杉鷹山などと交友関係を持ち、名を知らしめていました。
京都では光格天皇に会う機会を得られ、彦九郎はこの感動を歌に残します。
そして、天皇家と幕府間で起こった尊号一件(光格天皇の父・閑院宮典仁親王に上皇の位を授けようとしたが幕府が反対した事件)に首を突っ込んでしまい、公家の中山愛親(なかやまなるちか)と仲が良かった彦九郎も幕府に目をつけられてしまいます。
寛政3年(1791)に九州にいた彦九郎は捕らえられしまい、寛政5年(1793)に46歳で自刃します。
彦九郎の尊王論は吉田松陰をはじめ多くの幕末志士たちに影響を与えました。
前方後円墳の生みの親、蒲生君平
最後は儒学者、尊王論者、さらに海防論者でもある蒲生君平です。

君平は明和5年(1768)に産まれました。
先祖は戦国武将の蒲生氏郷と聞いた幼い頃の君平は先祖の名に恥じないように勉学に励みました。
熱心に勉学に励み過ぎて川の氾濫で橋が流されても着物と書物を頭の上に乗せ褌で塾まで通うことまでしたので周囲からは狂人と揶揄されていました。
君平はこの頃、『太平記』を読んだことと水戸の勤王志士、藤田幽谷の影響を受けたことで勤王思想に目覚めます。
寛政2年(1790)には彦九郎を慕って仙台城下にいる子平に会いに行きました。子平は君平の粗末な恰好を見るや「その恰好は何だ」と笑いました。
これに怒った君平は「礼儀の知らない爺が思い上がるな」と言って帰ってそうです。
その後の君平は寛政4年(1792)に『今書』で当時の時勢を論じ、享和元年(1801)に寛政8年(1796)から記述していた『山稜志(さんりょうし)』を完成させます。
この書物は幕末の尊王論の根拠とされています。また、『山稜志』で用いた古墳の形(前方後円)が現在の前方後円墳の用語として残っています。
文化4年(1807)にはロシアの脅威や北辺防備の薄さに対して海防を唱えた『不恤緯(ふじゅつい)』を著して幕府に献上しますが、幕府の警戒を受けることになってしまいます。
その後は江戸に住まいを移しますが、文化10年(1813)に赤痢により46歳で生涯を閉じます。
最後に
当時は誰も思いつかないことをやろうとしたので可笑しな人という意味で奇人と呼ばれていたかもしれません。
しかし、時代が幕末になると3人のやってきたことが報われるようになります。
この時から優れた人という意味で3人は寛政の三奇人と呼ばれてきたと考えられますね。
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