■中・下級武士の食事

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最近は、米不足や、それに伴う政府備蓄米の放出など、米に関する話題に事欠きませんね。今回は戦国時代の「コメ事情」について見ていきましょう。


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戦国時代の中・下級武士は、白飯はめったに食べられませんでした。一日二食が基本で、主食は雑炊やお粥でした。

雑炊というと、今はさまざまな具材を入れて作ることができますが、当時は事情がまったく違っていました。

そもそも、雑炊にして食べたのは米が貴重品だったからで、米の消費量を少しでも節約するために水を多くして、雑炊やお粥にしていたのです。

具は、菜っぱか豆、芋などを混ぜるのがせいぜいでした。混ぜるものがないときには、味噌で味付けするか、梅干だけで食べていたようです。病人食みたいですね。

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たまには混ぜご飯も作られましたが、これも目的は米の節約にありました。混ぜられたのは具ではなく、粟やひえ、麦などでした。粟やひえ、麦は、米に代わって主食として食べられることも少なくなかったのです。

それでも戦国武士が健康だったのは、少量とはいえ、栄養豊富な玄米を食べていたことが理由として挙げられます。

さらに、蛋白質をたっぷり含む大豆を味噌や豆腐として食べていたので、最低限の栄養は足りていたと考えられます。


また、戦となれば米がお腹一杯食べられましたし、魚や干貝、鳩やキジなどのおかずもたくさん食べられました。

■早生種が命綱

さてそれでは、戦国武将はそんな兵士たちの士気を高めるために、どのような種類の米を用意していたのでしょうか。

戦国時代は、特に籠城戦に備えて米が備蓄されることが多くありました。

どの城でも武器と食料の備蓄には余念がなく、特に兵士の腹を満たすための米は、少なくとも半年分以上は蓄えられていたようです。

で、その品種はきまって「早生種(わせしゅ)」でした。

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米の早生品種の代表格「ひとめぼれ」の田んぼ

常に大量の米を確保しておくには、味や収穫量よりも、とにかく早く成長して随時貯蔵に回せる品種であることが重要でした。

例えば、兵員1000名が半年持ちこたえられる米を備蓄すると、一人一日5合を食べるとして5000×180日で90万合。つまり900石という大量の米を集めなければなりません。

しかし戦国時代の合戦では、米を収穫するための領地を争うわけですから近隣の国から米を買うことはできません。

そこで、多少米の質が劣っても、早く収穫できる早生種が植えられたのです。

■籠城戦の食糧事情

ちなみに、戦闘が長引くと兵士の疲労を考慮して水を多めにし、ご飯をやわらかく炊きました。こうしてお腹を壊さないように用心していたと言われています。


一方、籠城戦になると、敵地に攻め込んだ軍は盛んに青田刈りを行いました。

青田を刈ってしまえば、籠城中の敵軍は新たな米を補給できなくなります。青田刈りは、敵を城からおびき出す作戦としても有効な戦術だったのです。

ただし、米が尽きても、籠城する兵士たちは草や木の実はもちろん、根や葉まで何でも食べ、抵抗を続けることが多かったようです。

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松の木に囲まれた城

城の周囲に松林が多いのもそのためで、松ぼっくりや松の根は、アク抜きをすれば、いざというとき食べられますし実は栄養価も高いのです。

決して景観のために松が植えられたわけではありません。

参考資料:歴史の謎研究会『舞台裏から歴史を読む雑学で日本全史』2022年、株式会社青春出版社画像:photoAC

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