2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう』にも登場する、のちの「鬼平」こと長谷川平蔵。
「べらぼう」で長谷川平蔵宣以を演じる中村隼人さん (大河ドラマ「べらぼう」公式サイトより)©NHK
【前編】では、若き日の長谷川平蔵が「放蕩」へと走って行った経緯を説明しました。
大河『べらぼう』にも登場、放蕩息子・長谷川平蔵はどう出世した?鬼の平蔵 誕生秘話【前編】

【後編】では、そんな彼がどのようにして出世していったのかを見ていきましょう。
平蔵が豪遊したとされる当時の本所は風光明媚、深川芸者で有名な遊里があり豪遊する金持ちが通う街でした。
こうした豪遊をする人は「大通」と呼ばれ、平蔵もその真似事をしていたようです。
400石の長谷川家に財産はそれほど多くはないはずですが、本所への屋敷替えの際には数百両の大金を支出していることから、石高以上の蓄財があったと考えられます。
また本所の屋敷は約1200坪もの広大な土地を有しており、その一部を町人に賃貸していたと思われます。
そうした財産があったからこそ、平蔵も遊里に通うことができたのでしょう。
■御書院番から御進物番へ
さて、そんな放蕩三昧の日々を過ごしていた平蔵ですが、安永3年(1774年)に先祖代々の役職である西の丸御書院番となりました。
これは将軍の世継ぎ(のちの11代将軍徳川家斉)の警護役で、容姿端麗かつ行儀作法に通じていなくてはならないのが、着任の条件だったといわれています。それを平蔵はクリアしたわけです。

徳川家斉(Wikipediaより)
さらに翌年には、仮役ではありますが西の丸御進物番となりました。
これは諸大名から贈られてくる進物を受け取り、納戸に納める役職です。
と言っても単なる受け取り係ではありません。
この二つの役職で、平蔵の才能はいかんなく発揮されました。
■ジンクスを破り異例の出世
ただ、ひとつだけ問題がありました。御進物番を務めた者は、その後に本番頭などには就くことはありえないとされていたのです。
つまり、そこで出世の道は行き止まりになるのが普通だったわけです。
ところが平蔵はこのジンクスを破り、その後も順調に出世を重ねていきました。
天明4年(1784年)には徒士頭となり、御目見え以上の身分の者が着る礼服「布衣」が許され、天明6年(1786年)に番方トップの御先手組弓頭になります。
これは戦時において弓矢を持って先陣を務める部隊長で、平時においては諸門の警備にあたりました。家督を相続してたった一年で、警備担当の最高位となったわけです。
そして、天明7年(1787年)に火付盗賊改の長官となりました。これは御先手組弓頭との兼任でした。
■遅かった初御目見え
史料から見る限り、平蔵が放蕩生活を行ったのは家督相続直後の非役の時代、すなわち一年ほどだったことになります。
その時は放蕩息子ぶりを発揮したのでしょうが、その後は上記の通り、人が変わったように出世街道を上り詰めていったのです。
これだけを見ると、放蕩息子としての平蔵と、公務員としての働きぶりが認められた頃の平蔵のギャップに混乱しますね。
おそらく平蔵はもともと生真面目な性格だったのでしょう。ただ、放蕩生活を送った時期に「何かあった」ことが伺える手掛かりはあります。
平蔵が公式の記録に初めて登場するのは明和5年(1768年)の記事で、23歳の時に10代将軍徳川家治に初御目見えしています。

徳川家治(Wikipediaより)
通常なら、旗本の子弟の初御目見えは7~8歳、遅くても12~13歳に行われますもので、23歳というのは少し遅すぎます。このあたりからも、10代の平蔵に何らかの不都合な事情があったことがうかがえるのです。
ともあれ『鬼平犯科帳』で描かれているように、実際に平蔵が悪所通いをしていたことは事実であり、このことがその後の捜査活動に大いに役立ったことは間違いありません。
参考資料:縄田一男・菅野俊輔監修『鬼平と梅安が見た江戸の闇社会』2023年、宝島社新書
画像:photoAC,Wikipedia
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan