■大見世から河岸見世まで

吉原の表通りにあった妓楼は、大見世・中見世・小見世など様々。江戸時代の妓楼の作りは、どれも同じで、すべて2階建て。
ただ、規模や格は見世によって異なりました。例えば、上級遊女(花魁)がいる大見世は、間口13間(約24m)、奥行き22間(約40m)とかなり広々。大見世となると、人の数もかなり多くなり、遊女や奉公人合わせて、百人ほどの規模だったそう。

一方、河岸見世というのもあり、外観や規模含めて、ほかの店とは歴然の差がありました。河岸見世の間口は4間(約7m)。ほかの妓楼のように内風呂がないので、吉原の区画内にある湯屋を利用するのが常でした。華やかな大見世とはかけ離れた世界なのが、窺えます。

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葛飾応為『吉原格子先之図』

そしてどの妓楼にも、一階には遊女たちがいる張見世があり、初めての客は通りに立って格子越しにお気に入りの遊女を見つけます。これを、「見立て」と呼んでいました。ただ、もうなじみの遊女がいる客ならば、入口の暖簾をくぐり、すぐに二階の座敷に案内してもらえるのです。しかし、その前に、たとえ武士であっても、刀を楼主の居場所である内所に預ける、という決まりがあったとか。

■妓楼の中はどんな感じだったの?

江戸吉原、遊女がいた妓楼(ぎろう)ってどんな所?大見世から河岸見世まで規模も様々


明治期の吉原

妓楼の一階には、土間や台所、風呂やトイレがあり、奉公人はここで生活していました。
さらにその奥には、楼主の居室や奉公人の雑魚寝部屋、二階には遊女の部屋、客と過ごす場や宴会場などがありました。2階の階段そばには、遣手部屋というものがあったそう。この遣手部屋というのは、遊女を監督する遣手の部屋のことで、遊女や客の動きを見逃すまいと目を光らせていました。

遊女たちが、おそらく一日の大半を過ごす場所が、この妓楼。きっと、多くの遊女、そして妓楼で働く人々や客の出入りで、日々賑やかだったのでしょう。

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参考文献:お江戸吉原草紙 原書房

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