■江戸の町の平和を守った町奉行

江戸の治安維持の役割を果たしたのが、町奉公所。市民は「御番所」と呼んでいたそう。
庶民の行政・司法・警察機構の役割を持ち、最初は北町と南町2つの奉公所がありました。元禄15年(1702)には、防火行政の充実を目的に中町奉公所が新設され、3つの奉公所がひと月ごとの交代制で、江戸市中の治安維持に努めていたそう。

享保3年、江戸の各地域に町火消の設置を命じられたため、翌年の享保4年には中町奉公所が廃止され、再び南北2つの奉公所のみに戻ります。そして、防火行政の一部を役所から民間に移しています。

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豊原国周「大岡越前守 坂東彦三郎」

■町奉公所の組織編成は?

ちなみにこの町奉公所の組織は、どんな感じだったのでしょうか?まず、トップは町奉行です。リーダーである町奉行は、南北にそれぞれ1名ずつ、優秀なものしか就けないといわれていました。奉行を補佐するのは、与力です。南北にそれぞれ25名いた与力の多くは世襲制で、仕事内容は20種類以上もありました。八丁堀付近に居を構えていた彼らには、「八丁堀の旦那」という呼び名もあったそう

同心も同じく世襲制で、それぞれ100名。町奉行から直接指揮を受けて、隠密廻り・定廻り・臨時廻りの3つの業務に携わっていました。

■岡っ引きや下っ引には前科者も

さらに同心の手先として利用されたのが、数百人の岡っ引です。そして岡っ引の手下は、数百人の下っ引。
どちらも元犯罪者で、手先として使えそうな者だけ選ばれます。犯罪を犯すものは、元犯罪者がよくわかるということですね。天保期(1803~1844)には、岡っ引に手当てがでるようになります。岡っ引の中には、立場を悪用して博打場を開帳したりする者もいたそうです。

奉公所は何度か移転して、文化3年(1806)には北町奉公所は呉服橋門、南町奉公所は数寄屋橋に落ち着いたようです。人の出入りが多い、江戸という大都市の治安を守るためには、町奉行・与力・与心・岡っ引・下っ引と様々な人の力が必要だったのですね。

参考文献:大江戸探検隊(2003)『大江戸暮らし』PHP研究所.

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