■西郷どんじゃない方、幕府側の西郷さん

前回の岡田以蔵の辞世の句に引き続き、幕末の辞世の句をご紹介します。今回は会津藩の西郷姉妹です。


幕末の「西郷さん」といえば真っ先に薩摩藩の西郷隆盛が浮かぶと思いますが、実は幕府側にも「西郷さん」が存在しました。それが会津藩家老・西郷頼母(さいごうたのも)です。

戊辰戦争で一族総自刃…。二人で詠み継いだ西郷姉妹の壮絶な辞世...の画像はこちら >>


西郷頼母 晩年の写真(出典:wikipedia)

幕末の会津藩といえば、戊辰戦争の劣勢を受けて諸藩が続々と新政府側に恭順する中、最後まで幕府の味方であり続けた藩です。幕末の混乱の中、会津戦争では新政府軍に大敗を喫し、城は崩れ、城下の大半が焼野原となりました。

■開戦前夜に下された西郷頼母一家の決断とは

会津戦争開戦前夜、会津藩の家老だった西郷頼母一家は、敵が目前まで攻めこんできている事を知り、ある重大な決心をします。

その決心とは、「一族総自決」。

西郷一族は、万一敗れた場合にも家老職である頼母の名誉を守るために籠城は選ばず、新政府軍が会津の地を踏む前に自刃したのです。

■姉妹の遺した辞世の句

頼母にはまだ幼い娘たちがいました。長女・細布子(たえこ)16歳。次女・瀑子(たきこ)13歳。三女・田鶴子(たづこ)9歳。四女・常磐子(とわこ)4歳。
五女・季子(すえこ)2歳。五人姉妹の長女、次女は壮絶な辞世の句を残しています。上の句を次女・瀑子、下の句を長女・細布子が読みました。

「手を取りて 共に行きなば 迷わじよ いざ辿らまし 死出の山道」

戊辰戦争で一族総自刃…。二人で詠み継いだ西郷姉妹の壮絶な辞世の句


一説によると、まだ状況を理解していない幼い妹たちを刺殺した後、細布子と瀑子は差し違えましたが、長女細布子だけは死にきれなかったといいます。新政府軍が西郷家の屋敷に入った時、すでに部屋は凄惨な血の海でした。二十数名の遺骸の中で、女性が一人だけがかろうじて生きており、虫の息で問いかけました。

「あなたは敵ですか、味方ですか……。」

この女性が長女細布子だったのではないかと言われています。目が見えなくなった細布子は「味方なら介錯してほしい」と訴え、新政府軍の兵士は思わず「味方だ」と答えて細布子の介錯をしました。

仲の良かった姉妹は、互いに手を取り合って天を駆け上がったのでしょうか。いつまでも忘れることのできない、もう一人の「西郷さん」の悲劇です。

参考文献:菊地 明(2007)「幕末百人一首」学研新書

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