町人文化が花開いた元禄時代以前、庶民が使っていた帯はおよそ5寸(15㎝)幅で模様もさほどなくシンプルなものでした。結び方も現代のようにたくさんあるわけではなく単純で、帯で遊ぶことができない分、着物は柄物で派手なものが多かったそう。
しかし18世紀になり不況期に突入し、8代将軍・吉宗は享保の改革を推し進め、贅沢を禁止するいろんな法令が発令。もちろん女性のファッションにも大きな影響があり、華やかな色や柄の着物は廃れることになりました。代わって、花色や鳶(鳶)色などの地味な色が流行しました。花色というと淡い色や明るい色をイメージしがちですが、実際はやや淡い藍色。鳶色は鳥のとんびの羽色のような茶色で、どちらも控えめな色味でした。
鳥居清長「雪月花美通の色取 雪」
■流行色は歌舞伎から
当時のファッションの流行はどこから生まれたのでしょうか。着物の柄、着こなし、色などは、庶民の娯楽、歌舞伎の舞台から火が着いたものもあったようです。役者が好んで使った色イコール庶民の流行色でした。歌舞伎から様々な流行色が誕生し、それらは着物にも活かされたのでしょう。
例えば、団十郎茶は初代市川団十郎が使った渋柿で染めた茶色です。また、江戸紫は歌舞伎の演目「助六」の鉢巻の色から来ています。主役の助六は江戸っ子が憧れる人物像でもありました。

「助六 河原崎権十郎(初代)」歌川国貞
■おしゃれはみえないところが大事
裕福な町人は、見えないところにあえてお金をかけるようになります。表は質素な木綿だけど裏地は派手な模様の着物、豪華な刺繍を施した羽織の裏地や襦袢などで、ひそかに贅沢なおしゃれを楽しんでいました。
18世紀中頃になると、帯の幅は9寸と広くなり模様があるものが主流になりました。帯の幅が広いので結び目も大きくなり、結んだ帯を大きく垂らすようになってきました。
この頃は着物の裾に模様が集中しているものが多かったので、正面から見ると模様がなくさみしくなりがちでした。そこで、着物の上前、襟から前身頃、後ろ見頃にかけて模様をつけた着物「江戸褄(えどづま)」が流行り出します。

「江戸名所百人美女 芝あたご」歌川国貞
江戸で粋とされたのは、ほっそりした着こなしです。少しくらい寒くても着込まずに我慢するのが粋だったのです。
おしゃれが大好きな女性たちがこぞって買い求めたのは、「衣装雛形」と呼ばれる小袖模様のサンプル本です。現代のファッション雑誌のように流行をチェックしていち早く取り入れていたのですね。
参考文献:「実見江戸の暮らし」石川英輔、「大江戸ものしり図鑑」花咲一男、「大江戸暮らし」大江戸探検隊
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