師走となると、街中がせわしかったのは、江戸時代も同じだったようです。歳の市では、しめ縄など年始に使うものを買う人・売る人で大賑わい。
縁起物は値切らないのが、粋だったそう。

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深川八幡宮では、12月14日・15日には行われていたとか。その後を追うかのように、浅草観音や神田明神、芝愛宕神社などでも歳の市が行われていました。その中でもひときわ賑やかだったのが、浅草観音。江戸一といわれる市で、羽子板を売る店が多かったことから、羽子板市とも呼ばれていたようです。

また江戸の商売は、盆と暮れの年2回勘定または暮れのみの年1回勘定だったので、貸した方は取り立てに必死です。そんな慌ただしい中、お歳暮が届いたら、身も心もほっこり。人気の食材は、塩引鮭、干鯛、鴨など。

■年越しそばは新年最初の食事だった?

そして、大晦日のお楽しみといえば、やっぱり年越しそばです。旧暦では、日付は日が沈むことで切り替わると考えられていたので、つまり大晦日の食事は新年最初の食事とされていたのです。

「年越しそば」が定着したのは江戸時代。そして江戸吉原で大晦日に行われた「狐舞」とは?


現代と同じように年越しそばが定着したのは、江戸中期から。その頃、江戸では脚気が流行っており、そばを食べると脚気にならないという説が広まっていたそう。
さらに、「そばのように細く長く生きられるように」という願いも込められているのです。

地域によっては、年越し前に食べる地域もあったとのこと。といっても、ちゃんと理由があるのです。「今年一年の災厄を断ち切る」という意味で、あえて年内に食べるんだとか。年越しそばは、古くから縁起物として親しまれていたのですね。

■江戸吉原も正月に向けて準備を

吉原でも、12月はせわしい時期です。20日頃には餅つきの音だけでなく、遊女が文を書く筆の音も。正月の晴れ着もほしいし妹女郎や禿(かむろ)へのお年玉も準備しないといけないし、なにかとお金が必要なので、客に暮れの文を書き綴るのです。

「年越しそば」が定着したのは江戸時代。そして江戸吉原で大晦日に行われた「狐舞」とは?


葛飾北斎 隅田川両岸一覧より

そして、吉原独自のイベントが狐舞でした。獅子舞ではなく、狐が来るのですね。狐の面を被った人が舞いながら遊女たちを追いかける一方、遊女たちは逃げながらおひねりを投げていたそう。この狐に抱きつかれると、翌年に孕むといわれていたので、遊女たちは捕まるわけにいかないのだとか。
なんとも吉原らしいイベントです。

いつの時代も、12月は慌ただしいもの。大晦日になると、今年も無事に終わって良かった!と感謝しつつ、来年も良い年になりますようにとお祈りしていたのかもしれませんね。

参考文献:大江戸暮らし、大江戸ものしり図鑑、お江戸吉原草紙

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