前回は吉原に並ぶ妓楼(ぎろう)の中から一つの女郎屋に焦点を当て、その内部を紹介しましたが、今回は妓楼(女郎屋)の中に暮らす人々を紹介します。

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■楼主

妓楼の主人は楼主と呼ばれました。
妓楼は2階建ての建物が多く、2階には座敷などがあって客を通し、1階の奥に楼主とその家族の生活スペースがありました。たいていは楼主とそのお内儀(妻)を中心とした家族経営で、お内儀がいれば当然子供もおり、そこには他と変わらない家族の営みがありました。

女郎を売るという職業上、楼主は「人の持つ8つの徳を忘れた非情な人間」という意味の「忘八(ぼうはち)」とも呼ばれました。実際、悪い人ではなくとも女郎屋の経営は生半可な覚悟でできるものではなく、経営者としてシビアな側面が必要であった事は間違いないでしょう。しかし女郎に全く感謝がなかったかといえばそうではなく、毎年正月には女郎たちに新しい小袖をプレゼントしていた事も事実でした。

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画像:楼主、お内儀の図
北斎「吉原遊廓の景」(部分)ボストン美術館蔵(文字加筆・筆者)

■遣り手(やりて)

いわゆる「遣り手ばばあ」とはここからきています。妓楼には、女郎の世話を焼く中年女性がかならず1人いました。それが遣り手です。遣り手のほとんどは元女郎。女郎として年季(何年間働きますという奉公の契約)を勤め上げ、借金を返し終えても吉原に残る道を選んだ、ある意味吉原最強の女性かもしれません。それだけに現役の女郎にはとても厳しく、逐一監視して小言を言ったり、悪さをすれば折檻したりと、嫌われる仕事を率先して請け負っていました。

こんなにいた!遣り手、若い衆…吉原遊廓の妓楼(女郎屋)の中に暮らす人々


画像:左から、禿(かむろ)、花魁、遣り手 Wikipediaより

■若い衆(わかいし)

吉原の妓楼に勤め、接客対応する男性の事を若い衆や若い者と呼びました。
彼らの仕事は多岐にわたります。例えば見世を取り仕切る番頭、2階を采配する廻し方、妓楼の入り口の台に座って見張りや呼び込みをする牛太郎(妓夫)、客の履物を預かり下足札をつけて下駄箱にしまう下足番、花魁道中の際に先頭を歩く金棒引き、花魁に傘を差す傘差し、花魁に肩を貸す肩貸しの男衆など。

こんなにいた!遣り手、若い衆…吉原遊廓の妓楼(女郎屋)の中に暮らす人々
画像:花魁に傘を差す若い衆(若者)の図
文・十返舎一九/絵・歌麿「青楼年中行事 上巻」国立国会図書館蔵

■雇い人

若い衆とは別に、接客をせず裏方の仕事をする男女の奉公人の事です。台所で客に出す膳の物や女郎たちのまかないなどを作る料理番、風呂の用意をする風呂番、夜中に2階の行燈1つ1つに油を足しつつ見回りをする寝ずの番、女郎の着物の繕いなどの針仕事をするお針子さんなど。

■芸者、幇間(たいこもち)

芸者は三味線や笛などで音楽を奏で、幇間はひょうきんな踊りや百面相などの芸で座敷を盛り上げる仕事です。
実際には芸者や幇間を抱える妓楼は少なく、彼らのほとんどが引手茶屋に所属していました。引手茶屋を通さずに揚がれるような小規模の妓楼は、直接何人か抱えていたようです。
こんなにいた!遣り手、若い衆…吉原遊廓の妓楼(女郎屋)の中に暮らす人々


画像:芸者ひろめの図
文・十返舎一九/絵・歌麿「青楼年中行事 上巻」国立国会図書館蔵

アイキャッチ画像:画像:左から、禿(かむろ)、花魁、遣り手(Wikipediaより)

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