百人一首には、奈良時代~鎌倉時代までの8人の天皇の歌が取り上げられています。それらの天皇には、ある共通点があることをご存知でしょうか?実は8人の中で輝かしい実績の伝えられる天皇は、トップバッターの天智・持統の両天皇だけなのです。
「794(鳴くよ)ウグイス平安京」というゴロ合わせとセットで名前が登場した桓武天皇、東大寺の大仏建立で知られる聖武天皇、唯一の女性皇太子を経て天皇に即位した孝謙/称徳天皇、摂関を置かず天皇自らの政治で数々の業績をおさめた「延喜の治」で後世まで称えられた醍醐天皇などの御製は、1つも選ばれていません。
撰者・藤原定家が選んだのはほとんどが、「妖怪伝説」で知られる崇徳院、自分の孫を早く天皇にしたい藤原道長の圧力で退位を余儀なくされた三条院など、何らかの「ワケアリ」の治世を送った天皇だったのです。
今回は、そんな百人一首に歌を取り上げられた天皇のうち、平安時代の2人の天皇に注目してみましょう。
■陽成院
筑波嶺の 峰より落つる みなの川 恋ぞつもりて 淵となりぬる
(画像出典:Wikipedia-陽成天皇)
13番目の歌の作者である第57代天皇の陽成院は、清和天皇の第1皇子として869(貞観10)年に誕生しました。天皇に即位したのは876(貞観18)年、わずか9歳の頃でした。まだ子供ということで、母・藤原高子(たかいこ)の兄にあたる藤原基経(もとつね)が摂政となりました。
ところが陽成天皇の在位中、彼の乳兄弟の源益(みなもとのまさる/すすむ)が宮中で殴殺される事件が起こります。この事件に陽成天皇が関与していた、または天皇自身が起こしたという噂が立ったため、摂政の基経は彼を退位させ、仁明天皇の皇子である光孝天皇を新たに擁立しました。
退位時の陽成院は数え年で17歳(満15歳)、崩御されたのは80歳の時ですので、上皇歴65年という歴代最長記録を打ち立てました。
■光孝天皇
君がため 春の野に出でて 若菜摘む 我が衣手に 雪は降りつつ
前項の陽成院の退位のために50代半ばにして新天皇に即位したのは、15番目に歌を取り上げられた光孝天皇でした。仁明天皇の第3皇子・時康(ときやす)親王として誕生した彼は、即位直前の53歳までは小松殿と呼ばれる宮中の一間でつつましく暮らしていました。
幼い頃から学問や芸術方面に優れた聡明な人物で、『徒然草』の176段には、小松御門(こまつのみかど)と呼ばれた光孝天皇が、天皇に即位した後も不遇の時代を忘れないようにと、かつて自分が暮らしていたススのこびりついた部屋をそのままにしておいたという記述が見られます。
深い繋がりのある今回の2人の天皇ですが、実は陽成院には乳兄弟殴殺事件を起こしたという噂だけでなく、精神を病んでいたという説や、度々奇行の見られる暗君だったという説がまことしやかに伝わっています。
しかし彼の退位後に光孝天皇が即位し、その次に臣籍降下からの皇籍復帰を経て宇多天皇が即位したことで、皇統が完全に文徳→清和→陽成の嫡流から傍流の光孝→宇多→醍醐に移ったことは、注目すべき点です。
実は陽成院暗君説は、彼の母・高子とその兄で摂政の基経の仲が悪かったことから、基経が陽成院と高子を排除し、自分に都合の良い光孝天皇を立てることを正当化するために流した噂だったとも言われているのです。
果たして真相はどちらだったのでしょうか?
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