商人であり芸人でもある紙芝居屋は、いくつもの源流を持っていました。その流れが集約し、今の姿になるまでの歴史を遡ってみましょう。
紙芝居の成り立ちについては諸説ありますが、今回は戦前・戦後を通じて作者として紙芝居業界に深く関わった「加太こうじ」の説を中心にして、その歴史を見ていきます。
■祭りの晩に現われた、まぼろしの「元祖紙芝居」
場面ごとの絵を見せながら物語を語る、おなじみの紙芝居の形式が生まれたのは昭和5年。その年のうちに『黄金バット』が登場し大ブームを巻き起こしたことで、子供向けの娯楽としての紙芝居は定着します。つまり昭和5年が紙芝居誕生の年……というわけではありません。
紙芝居は昭和5年に突如現れたわけではなく、前身となる芸能がありました。それは「紙芝居」。まったく同じ名前ですが、現代のそれとは形式が異なります。明治後期に成立し、大正時代から昭和初期まで祭りの見世物として東京近郊で人気を集めました。実は、これこそが元祖紙芝居だったのです。
いったいどんなものか、一言で表すと「紙人形による芝居」ということになります。竹串などの棒の先にキャラクターの絵を張りつけ、語りに合わせて動かすというものです。高さ10cm、横幅5cmほどの紙の表裏に絵を描き、ひっくり返すことで動いているように見せます。パラパラ漫画に近い効果があったようです。紙人形が芝居をするから「紙芝居」と呼ばれるようになりました。
後にこれは、区別するために「立絵(たちえ)」と称されることになります。対して現代の紙芝居は「平絵(ひらえ)」と称されています。
立絵の紙芝居は、祭りの晩、神社の境内に設置されたテント小屋で演じられました。三畳ほどの空間の小さな劇場です。主なターゲットは子どもで、代表的な演目は「西遊記」。孫悟空はいつの時代も人気者でした。

■紙芝居のルーツは江戸時代の幻灯「写し絵」
この元祖紙芝居もまた、前身となる芸能がありました。それは江戸時代に流行した寄席芸「写し絵」。ガラス板に描いた絵を、幻灯機によってスクリーン(和紙の幕)に映写するというものです。
しかもただ映すだけでなく、これもパラパラ漫画のように何パターンかの原画を用意し、絵が動いているように見せます。さらに背景用、人物用など何台もの幻灯機を駆使してダイナミックな画面を作り、語りや鳴り物を加えてドラマを作りました。
後に「アニメーションの原点」と呼ばれる写し絵は、江戸庶民の心をつかみ、寄席や屋形船で披露されました。説経節・歌舞伎・文楽・落語などから題材をとった演目が多く、怪談も人気があったようです。

他に表現方式として「絵解き」や「のぞきからくり」の影響も考えられるなど、諸説あるものの、この写し絵が紙芝居の直系の先祖であるというのが通説になっています。写し絵と紙芝居は、全く違う芸能と感じるかもしれません。しかしどちらも「移り変わる絵に語りを乗せて、物語を表現する」という点は共通しています。
■「紙芝居」誕生!しかし不評でいきなりピンチ!
不思議なのは、どうやって写し絵から紙芝居へと変化したかということですね。発端は、明治中期に映画の登場によって写し絵が衰退したことでした。
もともと写し絵は、手間と人手がかかるという難点がありましたが、それを一人で演じられるよう改良したのです。簡略化することで写し絵を残そうとしたと考えられます。そしてたどり着いたのが、「ガラスに描いた絵を映写する」のではなく「紙に描いた絵を、手に持って操作する」という技法でした。
ところが、このニュー写し絵は、寄席での評判は芳しくなかったようです。衰退したとはいえ写し絵は江戸っ子に愛された芸能。観客はスクリーンに映る幻想的な世界を期待しています。ところが見せられたのは紙人形の芝居。「思ってたのと違う!」と憤る客の気持ちもわかります。
しかしテキヤ(香具師)の「丸山善太郎」は、これに商機を見出しました。
こうした流れがあるため、紙芝居は当初「写し絵」を名乗っていました。しかし観客はもっぱら「紙芝居」と呼んだため、いつしかそれが正式名称になりました。意外な形で紙芝居という呼び名は誕生したのです。
参考文献
- 『ものがたり 芸能と社会』小沢昭一(白水社)
- 『飴と飴売りの文化史』牛嶋英俊(弦書房)
- 『紙芝居昭和史』加太こうじ(立風書房)
- 『紙芝居がやってきた!』鈴木常勝(河出書房新社)
- 『紙芝居の歴史を生きる人たち 聞き書き「街頭紙芝居」』畑中圭一(子どもの文化研究所)
- 『紙芝居文化史 資料で読み解く紙芝居の歴史』石山幸弘(萌文書林)
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