書の才能だけじゃない!能筆家・藤原行成の能吏としての才能がわかるエピソード
道長の娘・彰子の子である敦成を天皇に、と一条天皇に進言し、みごと成ったエピソードをかいつまんで紹介しましたね。
■一条天皇、そして藤原道長の側近だった藤原行成
「教導立志基」より『大納言行成』井上探景筆
そう、行成は道長の側近でもあり、天皇との橋渡し役としてかなり重宝されていたわけです。ほかにも、道長は行成の書の腕前をこう評価しており、「原本はあげるからあなたが書き写した写本をくれないか」と言われた、なんてエピソードもあります。
■行成、道長と同日に薨去
そんな縁のある二人、なんと同年同日に亡くなってしまったのです。
道長が亡くなったのが万寿4年12月4日、そして行成が亡くなったのも万寿4年12月4日。なんという運命でしょう。
実際、行成は亡くなる数日前に倒れてそのまま亡くなった、と藤原実資の日記「小右記」に記されています。道長も数日腫れものに苦しんだ後の死であったといいますが、道長が死ぬ前に複数の阿弥陀如来の手と自身の手を糸でつなぎ、読経しながら亡くなったという話は有名ですよね。
世間も時の権力者である道長が危篤ということで大わらわ。しかも、「小右記」によれば道長が亡くなったのが早朝、行成が亡くなったのが同日の夜。行成が息を引き取ったころは、世間は「天下の道長が亡くなった」ニュースでにぎわっており、誰も行成の死を気にかけなかったんだそう。
せめて先に亡くなっていれば、もう少し世間に注目されたかもしれませんね。
■そもそも二人は違った運命を歩んでいたかも?

行成の父・藤原義孝(小倉百人一首より)
摂関家の藤原北家の長である道長と比べると劣るものの、一応行成も正二位、権大納言まで出世した人物です。
そもそも、道長と行成は親戚同士。狭い平安貴族の世界で親戚云々、というのはちょっとよくないかもしれませんが、そうだとしてもこの二人はかなり近しい親戚です。
同じ藤原北家に生まれ、行成の祖父・伊尹と道長の父・兼家は兄弟。藤原北家九条流の藤原師輔の嫡男であった伊尹は出世街道まっしぐら。摂政関白まで一気に上り詰めました。このままいけば息子・義孝から行成へと政治のトップの座は引き継がれていったはずだったのです。
それが、父・義孝の早すぎる死(21歳)、続いて祖父・伊尹も薨去。一瞬にして行成出世の道は絶たれたのです。
道長と行成が同日に亡くなったエピソードは、この出自からの因縁すら感じさせますね。もし父が長生きしていれば……。
それが叶わず、結局行成は最後まで道長の影の存在だったというわけです。
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