■有名だけど誰が詠んだ?

新渡戸稲造の歴史的名著【武士道】を読んでいたときのこと。織田信長、豊臣秀吉、徳川家康三人の大名の性格を言い表した狂歌として有名な3句が、引き合いとして出されていました。


  • 「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」(織田信長)
  • 「鳴かぬなら鳴かせてみせようホトトギス」(豊臣秀吉)
  • 「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」(徳川家康)
あまりにも有名ですが、そういえば誰が詠んだのかを聞いたことがないなぁ・・・とふと思い立ち、調べてみると「松浦静山」という名前がキーワードとして浮上しました。

鳴かぬなら…戦国三武将を表現した有名なあの詩は誰が詠んだか知...の画像はこちら >>


■第九代平戸藩主・松浦静山とは?

平戸藩世嗣・松浦政信の長男として江戸に生まれます。平戸は現在の長崎県ですね。彼が生きた時代は宝暦10年(1760-1841)。静山が生きている間、江戸幕府の田沼意次が老中となったり、天明・天保の大飢饉が起きたり、晩年は大塩平八郎の乱があったり。全国が乱れ、財政が非常に苦しい藩があった時代でもありました。

側室の子だった静山。父が早世し、12歳で祖父の養子となり16歳で家督を相続します。幼い頃から記憶力に優れ学問ができましたが、病弱だったため文武両道を目指し、心形刀流(しんぎょうとうりゅう)免許皆伝の腕前を持つほどになりました。

君主として維新館という大胆な名前の藩校を設立したり(幕府に咎められたが古代中国の詩経の一説です、といって難を逃れたそう)、身分にとらわれない人材登用も行い、藩政改革を成功させます。

蘭学やキリスト教にも関心を寄せたというので、好奇心あふれる殿様だったのでしょう。
あっさり47歳で家督を譲ったあとは、随筆『甲子夜話』を書き綴ります。
1821年の甲子の日に起草したあと、20年間書きためた甲子夜話はなんと278巻にものぼります。

ちなみに「こうしやわ」でもなく「きねやわ」でもなく「かっしやわ」と読みます。その甲子夜話に記されたのがこの記事の本題である「ホトトギス」の詩。

■ホトトギスは読み人知らず

それはこんなくだりです。

夜話のとき或人の云けるは、人の仮托に出る者ならんが、其人の情実に能く恊へりとなん。
郭公を贈り参せし人あり。
されども鳴かざりければ、なかぬなら殺してしまへ時鳥 織田右府
鳴かずともなかして見せふ杜鵑 豊太閤
なかぬなら鳴まで待よ郭公 大權現様

このあとに二首を添ふ。これ憚る所あるが上へ、固より仮托のことなれば、作家を記せず。
なかぬなら鳥屋へやれよほとゝぎす
なかぬなら貰て置けよほとゝぎす

杜鵑、時鳥、郭公は全てホトトギスと読みます。この鳥は他に杜宇、蜀魂、不如帰、子規などもあり非常に異名が多い。ややこしい!

仮託というのは「他の物事を借りて言い表す」こと。静山は要するに夜誰かと談話しているときに「郭公(ほととぎす)を(3人に)贈ったら何と詠むか」という他人が詠んだ狂歌を記しただけ。


この訪れた「誰か」というのがとっても気になりますね!あとの二首も「憚る」と言って、誰に仮託して詠んだのかすらも伏せています。幕府の耳に入ったら危ない人なんでしょう。と・くれば、徳川将軍の誰かを想定して詠んだ可能性が高まりますね。

本当は静山自身が詠んだのに、それを伏せているだけだったりして・・・と思ったら、更に古い文献『耳嚢』〈1784(天明4)年頃~1814(文化11)〉にこの狂歌が記されていたので、それは違いました。

3句を静山が詠んだという説もありますが、一大名が記した文献として甲子夜話が有名なことや、娘の愛子が明治天皇の祖母で、静山は明治天皇の曾祖父としても知られていることなどもあって、静山の名前が一人歩きしてしまったのでしょうか。

なんにせよ、有名な狂歌として今後もずっと伝えられていくのでしょうね。

■勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし

彼が記した有名な言葉があります。それが

「勝ちに不思議の勝ちあり 負けに不思議の負けなし」

こちらは静山が書いた剣術の指南書「剣談(けんだん)」の中にある言葉。勝負に勝つときは偶然や運もあるが、負けるときは必ず原因がある・・・という意味で、スポーツ界や棋界ではよく使われる格言になりました。野村監督が発して広く一般にも知られるようになりました。

教科書には載らないが日本人なら誰しもが知っているこの三句。その部分だけではなく、一から甲子夜話を読んでみたい気もしますが、278巻は気が遠くなりますね!

参考文献:『武士道』新渡戸稲造、『甲子夜話』松浦静山

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