百人一首には天皇や皇族の歌も取り上げられていますが、女性皇族としてただ1人選ばれたのが、式子(しきし/しょくし/のりこ)内親王です。
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
(私の命よ、絶えるなら絶えてしまうがいい。
「人に知られるくらいなら、死んでしまった方が良い」という心に忍ぶ激しい恋を詠んだ、現代でも人気のある歌の1つです。
式子内親王(1883年(明治16年)新撰百人一首より 出典:Wikipedia
後白河天皇の第3皇女として誕生した式子内親王は、平治元(1159)年から嘉応元(1169)年まで10年間、賀茂神社の斎院(さいいん)を務めました。斎院とは、賀茂神社に奉仕する未婚の皇女で、基本的には天皇が代わるごとに内親王か女王の中から選ばれていました。
退任後はほとんどの斎院が生涯独身を通していました。これには、そもそも女性皇族の結婚が極めて難しかったという事情もあったようです。式子内親王もこの例に漏れず、独身のまま生涯を終えました。
■いったい誰?彼女の心に秘めた恋の相手
そんな高貴な身分の彼女が、ここまで激しい恋心を抱いていた相手とは、いったい誰だったのでしょうか?
有名な説としては、式子内親王の和歌の師匠が藤原定家の父の俊成だったため、いつしか内親王と定家は親密な仲になった、というものがあります。藤原定家の日記である『明月記』に「体調の悪い式子内親王のお見舞いに行った」などの記述が多く見られるため、当時から噂も立っていたようです。
また、彼女は後の建久2 (1191) 年頃、謀反に関係したという疑いをかけられたことから出家し、それ以後法然上人を師と仰いでいます。そのことから、彼女の恋の相手は法然上人であったとも言われています。
いずれにせよ、内親王という高貴な身分の女性の色恋沙汰は決して表ざたにされることはなかったため、どちらの説も憶測の域を出ません。
■実はこの歌は「題詠」!「百首の歌の中に忍恋を」
この歌の出典は『新古今和歌集』ですが、その詞書(ことばがき)には
百首の歌の中に忍恋(しのぶこい)を 式子内親王
とあります。
つまりこの歌は「題詠」、つまり「忍恋」というお題で詠んだ歌だったのです。当時の「歌合せ」ではこういったことがよく行われており、僧侶が恋する女性になりきって歌を詠んだり、老女が若い男性と恋歌の贈答を行ったりすることもありました。

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