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これは明治時代後期の芸妓さんの日本髪を紹介した古写真です。
■大阪の芸妓といえば富田屋 八千代
八千代は本名・遠藤美紀子。13歳から芸妓の道に入り、明治時代~大正時代にかけて大阪で活躍。その名は全国的に知られた存在で、日本三名妓の一人とも評された程でした。(日本三名妓:東京の万竜、京都の千賀勇、大阪の八千代)
その八千代の当時の写真がこちら。

とっても美しいですよね。当時もその容姿が人気で、多くのブロマイドや絵はがきが作られました。当時、現在で言うところのミスコンのようなものも開催されており、芸妓さんがエントリーするミスコンなどもありました。ですので、当時は芸妓さんがアイドルや女優のような役割も担っていたのかもしれませんね。
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八千代はその美貌もさることながら、人柄の良さにおいても秀でたものを持ち合わせており、多くの著名人が八千代の素晴らしさに惚れ込んでいました。


画家・岡本太郎の父で漫画家の岡本一平も八千代を高く評価した一人で、こんな言葉を残しています「二重にくびれた二重瞼は微紅を帯び、あたかも春花の柔らかく、また温かく、睫毛に添うて香りかかり、乱れかかり・・・描くあたわず。・・」
松下電気の創業者・松下幸之助は、会社を創業する前の職場で富田屋の停電の修理を依頼された際に八千代に「お気の毒」と声をかけられ、茶菓子と祝儀袋を差し出されたとき、顔を真っ赤にしてお礼の言葉も言えなかった…というエピソードを語っています。
■八千代、29歳での結婚
そんな八千代が結婚した相手は、日本画家・菅 楯彦(すが たてひこ)。菅が富田屋の芸妓に絵を教えることになり、それがきっかけで出逢い、結婚に至ります。その時、八千代は29才。結婚を機に芸妓を辞め、八千代は本名の美紀子に戻ります。結婚生活では、芸妓の頃についた立ち居振る舞いを姑が嫌い、日々きつく叱られていたそうです。しかし八千代は一切口答えしなかったそう。

当時、楯彦の友達であった谷崎潤一郎はこのような言葉を残しています。「みきさんは、しゅうとめさんの前では、いつも手をついてものを言っておった。慣れない炊事・洗濯で、ひび・あかぎれだらけになりながら、孝養を尽くされた。どんな金持ちや偉い方の奥さんにもなれた彼女の姿に涙ぐむ者は多かった。」
■早すぎる死
楯彦と八千代の仲は変わりませんでしたが、結婚から7年後の大正13年(1924年)に、八千代が腎炎を患い、帰らぬ人となってしまいました。

13才で芸妓の道に入り、その美貌と人柄の良さでまたたく間に全国にその名が知れ渡るほどの名妓となった八千代の人生。37年という短い人生でしたが、多くの人々を魅了し続けた人生でした。
様々な著名人が言葉を残していますから、いつかテレビドラマや映画で描かれる事があるかもしれませんね。最後に、八千代の生前の映像がYoutubeに公開されていますので、そちらを紹介します。
参考:富田屋の八千代, 菅楯彦, 墓守たちが夢のあと
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