自殺未遂で心を病んだ西郷隆盛が愛した流刑地の妻、愛加那 [前編]
時代劇ではおなじみの島流しですが、江戸時代、他にどんな刑罰があったのでしょうか。
歌川国芳「高僧御一代略記」
町人や僧侶など階級によって刑罰が違いますので、今回は武士への処罰を一部ご紹介しましょう。刑の軽いものから記していきます。
■遠慮(えんりょ)
自主的に行う意味合いが強く、門を閉ざして日中は外出を控えます。ただし訪問客は受け入れてもよく、夜も目立たないように外出すれば黙認されました。僧侶も科せられた刑です。
■逼塞(ひっそく)
門を閉ざして白昼の出入を許さないこと。閉門より軽く、三十日・五十日の二種ありました。僧侶も科せられた刑です。
■閉門(へいもん)
蟄居より軽く、逼塞より重い監禁刑です。屋敷の門扉は交叉された竹竿で閉ざされ、召使いなどの出入りは禁じられ、当主は一室で謹慎します。期間は50日間と100日間の二通りありました。
当主の気分を害したり不手際があると直ちに命じられるものなので、事例の多い刑の一つです。
■蟄居(ちっきょ)
これもよく耳にする刑罰の一つですね。幕末期には最後の将軍・徳川慶喜が上野寛永寺に蟄居しました。実は蟄居は「蟄居・蟄居隠居・永蟄居」の三段階あります。
屋敷内の一室に自ら閉じこもり、髪結いもひげ剃りも入浴もせず、室内から一歩もでません。例外は便所のみで、食事は家族が運びます。慶喜のように、反乱や反逆の意志がないことを示すために自発的に行う者もおりました。
蟄居隠居は家督を譲り当主としての権限を一切失うことです。ただし、家禄や武士としての身分はそのままです。
永蟄居は改易一歩手前の終身刑のようなもので、座敷に牢格子をはめられることもあり、一歩も外出できません。
こうしてみると、隠居は家禄が維持される点で悠々自適の生活を送れるイメージがありますが、一度隠居すると二度と復職できません。失態や失政などで、若いのに強制的に隠居させられた場合、武士としての人生は終わったものと同然。
これら自宅での監禁刑には、当然ながら門番が交代で見張りにつきました。
■預かり(あずかり)
幕府が大名に預けて罪人を禁固刑にすること。原則として御目見以上かつ500石以上の武士が預かりになりました。食事など身の回りの費用は、預かった家が全て負担します。
禁固刑なので罪人は座敷、または牢座敷から一歩も出てはいけません。しかし、有名な赤穂浪士事件で大石内蔵助らを預かった細川家のように、温情をかけて客人のように扱うケースも稀にありました。
■改易(かいえき)
蟄居より重く切腹より軽い刑で、武士の身分を剥奪されて家屋も没収されます。
元々有していた家屋や土地の近くにも住むこともできませんが、その距離は一律に決まってはいませんでした。
■切腹(せっぷく)
言わずもがな、「ハラキリ」として海外でも知られている行為です。武士が体面を重んじ、罪を認めて自らを裁きます。上半身をはだけ、晒しを巻いた腹に抜き身の短刀を突き立てます。
武士にしか許されていない独特の行為のため、切腹を赦されず斬首されることが一番不名誉なことでした。
幕末で不名誉に預かったのは新選組局長の近藤勇 彼は大久保大和と変名していましたが、流山で官軍に包囲され降伏ののち、板橋処刑場で斬首されました。薩摩藩士の黒田清隆は、旧幕府軍と敵対しているとはいえ、切腹させなかった新政府軍の同胞にひどく腹を立てたと言います。

図:大星由良之助 塩谷判官 歌川豊国
■遠島(えんとう)

徳川刑罰図譜
武士のみに科せられた刑ではありませんが、有名な刑ですのでご紹介。幕府は、天領と呼ばれる幕府の直轄地、伊豆七島と佐渡島に罪人を流しました。他藩は自分らの領地内の島や人里離れた山奥を流刑地としていました。
罪人は「五人組」と呼ばれる連帯責任を伴う組織に帰属させられ、監視を受けながら組頭の命令に従って生活をしました。
幕府から遠島先への物資の援助はありませんので、生活の糧はすべて自分で調達せねばなりません。財力がある者は仕送りを得て住居を建てられましたが、ない者は粗末な小屋や穴ぐらで寝起きしました。
「御定書百箇条」によると、以下のような罪人が対象です。
- 幼女への強姦致傷をした者
- 寺持女犯の僧
- 博打宿、博打の胴元
- 殺人の手引や手伝をした者
- 「相手より不法之儀を仕掛、無是非及刃傷、人殺候もの」
- 15歳未満で殺人や放火をした者が15歳になった時

月岡芳年「俊寛僧都、、、」
参考文献:「図説」日本拷問刑罰史
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan