空海(くうかい)が日本に男色文化を広めたとされていることを以前紹介しました。

男色の開祖?女犯を禁じる仏教だけど男はOK、空海は日本の仏教界に男色ブームをもたらした

今回はそれに関連して、「風信帖」のやりとりでも知られる最澄との、弟子をめぐる三角関係エピソードを紹介します。


■密教では空海の弟子となった最澄だけど……

平安時代の僧、空海と最澄が、お気に入りの弟子をめぐって三角関...の画像はこちら >>


最澄像(国宝)

平安時代の僧としては空海と並ぶほど有名な最澄(さいちょう)。天台宗の開祖として知られています。当時の最澄は空海よりも名の知られた、いわば仏教界のスターのような立場でしたが、実は密教に関しては空海に教えを請う弟子の立場でした。

悲劇は、この弟子入りに始まるのです。

■最澄、可愛がっている泰範を空海に弟子入りさせる

もともと僧としての立場は違えど、「風信帖」のような手紙のやりとりをするなどそれなりの交流はあった二人。

最澄は伝法灌頂(でんぼうかんじょう)という、真言宗で阿闍梨の位を授かる儀式を受けていなかったため、空海が格下であるにも関わらず彼がすでに儀式を受けていたために弟子入りしました。

ところが、空海は「理趣釈経(りしゅしゃくきょう)」という真言密教の教典を貸してほしいという最澄の頼みを断ります。書物から得られる知識だけで真言密教を理解しようとした最澄に、空海は「密教は体験を通して理解するもの」と手紙に書いて送ったとか。

最澄は空海に弟子入りしたとはいえ、身軽にホイホイ会いに行って修行できる立場ではありません。高僧ですから。こういうちょっとしたズレから二人の関係は悪化していくのですが、それを決定的なものにしたのが弟子である泰範の存在でした。最澄は空海に弟子入りするにあたって、自分の弟子たちを複数空海のもとへ送っているのです。
身軽ではない自分の代わりに学んで来いということでやった弟子でした。

その弟子のなかには、最澄が後継者と目していた泰範もいました。

■泰範は帰ってこいという最澄の声を無視

真言密教を学ぶために送り込んだ泰範ですが、最澄にとっては自分の後継者としてかわいがり育ててきた愛弟子です。

ほかの弟子たちは空海のいる高野山からすぐに帰っているのですが、なぜか泰範だけは再三帰るよう促しても比叡山に戻らない。

とうとう、空海の代筆によって「天台宗より真言密教のほうが優れてるから」という内容の手紙が届けられます。こうして結局泰範はそのまま戻らず、最終的には空海の十大弟子のひとりに数えられるほどになりました。

こうして、最澄の愛弟子・泰範が空海に夢中になってかつての師を捨てた、と後世に伝わり、男色関係にあった弟子を空海にとられた「三角関係説」が誕生したと考えられます。

実際彼らが男色関係にあったかどうかは定かではありませんが、最澄の愛弟子も虜にするほど空海という人間に魅力があった、ということではないでしょうか。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ