戦国ファンなら一度は耳にするであろう「武田二十四将」、信玄公にお仕えし、武勇を後世に轟かせた英雄豪傑たち。名軍師として大河ドラマの主人公にもなった山本勘助(菅助)、「武田の赤備え」で有名な山縣昌景、若き信玄公を補佐した甘利虎泰……等々。


筆者も、子供の頃からそのカッコよさに憧れ、甲州旅行を楽しみにし、関連書籍を読みあさったものでした。でも、改めて調べてみると、意外と知らなかった事が出て来るもので、今回はそれを紹介したいと思います。

武田信玄に関してはこちらも記事もどうぞ。

両者の耳と鼻を削ぐ!?戦国時代はケンカも過激、武田信玄「喧嘩両成敗」の実例と精神

■その一・信玄公も24人の中にカウントされてることがある

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歌川国芳『川中島百勇将戦之内』「明将 武田晴信入道信玄」

武田二十四将と言うと、何となく「信玄公にお仕えした24人の武将たち」とイメージしていたのですが、色んな二十四将図を改めて見ると、多くの絵では信玄公も含めて24人。だから「信玄公と、彼にお仕えした23人の武将たち」となることがある訳ですね。

今まで、二十四将図を見て24人とカウントしながら、先入観だけでずっと思い込んでいました。

■そのニ・全員が一度に揃った事はない

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春朗画「武田二十四将絵尽新板」より。

武田二十四将それぞれの生没年を調べると、全員が確実に生きていたのは、1547年(最年少・真田昌幸の誕生)から1548年(板垣信方・甘利虎泰が戦死)までの2年間。

無理矢理みんな集まれない事もありませんが、数え年3歳児と、還暦近い老将が肩を並べていたとは、ちょっと考えにくいところです(仕えていた年代も当然違います)。

つまり、武田二十四将とは「信玄公と、彼にお仕えした歴代の名将たち」という事になります。

きっと「天下に名だたる武田家の豪傑たちが居並ぶ光景を見たい」という人々の願望が、二十四将図を描かせたのでしょうね。

■その三・メンバーは必ずしも固定じゃない

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宝暦7(1757)年「武門便幼」より。


流石に信玄公が外される事はほとんどありませんが、武田二十四将図の中には、一部顔ぶれの違ったバリエーションもあります。

そもそも「武田二十四将」という役職や称号が信玄公の在世当時からあった訳ではなく、二十四将図を描く後世の絵師たちが、定番以外のメンバーも自由にチョイスしたためです。

有名どころでは、信玄公の嫡男である勝頼公が居たりいなかったり、信玄公の弟である信廉公が中央に鎮座しているバージョンがあったり……等々。

絵師の好み?によるメンバーの違いを見比べるのも、二十四将図を鑑賞する楽しみの一つと言えるでしょう。

■番外編・アイドルっぽい?他グループとのかけもちメンバーも

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武田四天王の第二期メンバー・馬場信春(恵林寺像・松本楓湖筆)

武勇名高き武田家ですから、二十四将の他にも、二十二将とか十四将といった人数が異なるバージョンや、武田五名臣(甲陽五名臣)とか武田四天王など、色んなグループが後世に創作されました。

そのメンバーには人気=実力のある武将が選抜され、他のグループとかけもちする事もありました。

また、武田四天王については信玄公御治世の前後で第一期・第二期と選抜されるなど、何だかアイドルっぽいですね。

■終わりに

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武田神社(躑躅ケ崎館跡)。今も多くの参拝者が、信玄公の遺徳を偲ぶ。

以前、かいじあむ(山梨県立博物館)の開館10周年記念特別展「武田二十四将―信玄を支えた家臣たちの姿―」を見学した時、来館者による人気投票「TKD24総選挙」が実施されていました。

その結果はこちらに紹介されていますが、多くの方が信玄公の遺徳を偲び、彼を支えた英雄たちに寄せている興味関心の高さが察せられます。

少しずつ形を変えながら、時代を超えて愛され続ける武田二十四将は、これからも甲州人の誇りとして、これからも戦国ファンのみならず、多くの方を魅了し続けることでしょう。


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