鎌倉市章のササリンドウ。
源氏と言えば笹竜胆……というイメージは今日広く知られており、源氏ゆかりのスポットには、あちこちで笹竜胆を見かけることが出来ます。
しかし、それが高じて「頼朝公は源氏の棟梁」「源氏の紋は笹竜胆」「だから、頼朝公の家紋は笹竜胆」と誤解されている方もいるそうで、今回は鎌倉武士の家紋文化について紹介します。
■鎌倉武士の家紋文化
佐竹扇:五本骨の扇に満月が描かれているが、よく「日の丸扇」と呼ばれる。
さて、家紋の文化は元々公家(貴族)の発祥ですが、それが武士達に広まったのは平安末期、平氏滅亡後と言われています。それまでの源平合戦期は源氏なら白い(又は南無八幡大菩薩)旗、平氏なら赤い(又は南無妙法蓮華経)旗を掲げて敵味方を識別していました。
しかし元暦二(1185)年、壇ノ浦の戦いで平氏(清盛の息子・宗盛ら一門)が滅亡した後は、基本みんな「源氏(頼朝公)の味方」となっています。
そんな文治五(1189)年、常陸(現:茨城県)の佐竹隆義は奥州藤原氏征伐に参陣しましたが、従来通りに無地の白旗を掲げていた事を頼朝公に咎められました。
「平氏が滅亡して世はみんな白旗(源氏の味方)なので、紛らわしいから印をつけなさい(意訳)」
そう言って満月を描いた五本骨の扇を下賜して旗頭につけさせた(佐竹氏の家紋・佐竹扇の由来)とも言われますが、それ以来、他の御家人たちも白旗に家紋を描くようになったそうです。
このエピソードは、単に識別のみならず「無地の白旗を掲げる資格がある『源氏の嫡流』はあくまで自分一人なのだ」というメッセージであったとも言われ、義経公はじめ、多くの源氏一族を粛清して権力基盤の確保に必死だった頼朝公の焦燥感が偲ばれます。
つまり、鎌倉武士の家紋とは頼朝公が御家人たちにつけさせたもので、自らは「無紋(白無地)」をシンボルとしていました。
「マークなんか無くたって、俺が誰だか判る筈だ!」
そう言わんばかりの傲慢っぷりに、いっそ清々しさを感じてしまいますが、まさに「天下人の境地」を体現していたのでしょう。
■笹竜胆の家紋は誰が?
揚洲周延「勧進帳(部分)」より、着物に笹竜胆の柄を忍ばせることで、源氏の縁者(義経公)である事を表現。
頼朝公の家紋が「無紋」なのは判りましたが、では、笹竜胆の家紋は誰が使っていたのでしょうか。笹竜胆の家紋を用いていた源氏と言えば村上源氏が有名で、頼朝公の一族である清和源氏では、あまり多くありません。
ちなみに、笹竜胆の家紋を用いていた著名人には、曹洞宗の開祖である道元禅師(村上源氏、久我山竜胆紋)や、明治期の外遊使節団で有名な岩倉具視(村上源氏、笹竜胆紋)などがいます。
(※『~源氏』とは、その天皇陛下から枝分かれした子孫を意味します。また、源とは『皇室にルーツ・源を持つ』という意味の姓です)
それが後世の創作(例:歌舞伎「勧進帳」、「曽我兄弟の仇討」など)で源氏の紋として混同された事から、源氏と言えば笹竜胆、というイメージが一人歩きしていったのでしょう。
■終わりに
鎌倉市・源氏山公園の頼朝公像。
以上、笹竜胆が頼朝公の家紋ではない(可能性が高い)事について紹介してきましたが、と言って現在あちこちにあしらわれた笹竜胆紋についていちいち指摘するのも、また野暮というもの。
少しずつカタチは変わっても、時代と共に敬愛され続けてきた頼朝公はじめ、源氏一族の遺徳を偲び、歴史に興味関心を持って貰えたら嬉しいです。
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