突然ですが江戸時代の離婚事情、ご存知ですか?「江戸時代ってどんな理由で離婚してたの?」「よく聞く三くだり半って何?」今回は知っているようで実はあまり知らない江戸時代の離婚事情をご紹介します。

■夫から妻へ「離縁状」

江戸時代にはいかなる理由でも離婚の際には夫から妻へ離縁状が渡されました。
これについては幕府法「公事方御定書(くじかたおさだめがき)に法律で定められており、要約すると「①離別状を妻に渡さず後妻を迎えた男は居住する村または町から追放(理由次第では家財を取り上げ、江戸から追放)②離別状を貰わず再婚した女は剃髪し親元に返す」。

このため、夫の方は妻へ離縁状、それを受け取った妻は夫に返り一礼(受取証書)を書きました。ちなみに離縁状は慣習としてほとんどの場合三行半に収めたため、「三くだり半」と呼ばれました。

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文章がきちんと三行半に収められた三くだり半 Wikipediaより

無理やり三行半にしようと文字をぎゅうぎゅう詰めにしてある離縁状も多いようです。ただし必ずしも3行半じゃなくてはならないわけでもなかったので、中にはものすごーく長い離縁状もあります。

また、当時は文字を知らない人もいたので、その場合には三本半の縦線を紙に書いて、爪印を押せば離縁状として認められたのだとか!?

■仲介役の縁切寺

2人だけじゃどうにも決着が付かない!そんな時のお助け役が「縁切寺」でした。男子禁制の縁切寺に妻が駆け込んで「助けて下さい!」とすがれば寺はすぐに仲介に入って夫側を説得し、速やかに示談で離婚を成立させました。

縁切寺は鎌倉の東慶寺と群馬の満徳寺の2か所でした。

江戸の離婚事情!江戸時代ってどんな理由で、どうやって離婚してたの?


東慶寺の山門 Wikipediaより

話し合いが困難な場合には、駆け込んだ妻が一定期間(東慶寺では24ヶ月)縁切寺に滞在する事で強制的に離縁が成立し、夫は離縁状を書かなくてはなりませんでした。

寺に滞在する間、妻は出家するわけではなく寺の日々の雑務を手伝いながら過ごしたそうです。

■気になる離婚理由は?

気になるのが江戸時代の離婚理由ですよね。離縁状にはマイナスな事を書くと双方の再婚に支障があるため、思いやりで特に理由を書いていなかったり、「深かるべき御縁が浅かったため」というマイルドな理由付けものが多数を占めます。


しかし中には「妻が同じ村の誰某と浮気して家を出て行ったため」であったり、反対に夫の浮気やDV、悪所通いや博打の大借金が原因の場合もありました。

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また、詳しい理由は不明ですが、かの浮世絵師歌川広重の娘は2代広重と結婚するも離婚、そして3代広重と再婚しました。何やらダークな理由が渦巻いていそうな気がして様々な憶測をしてしまいますよね……。

今も昔も、夫婦の別れには悲喜交々のストーリーがあるようです。

参考文献:穂積重遠「離縁状と縁切寺」国立国会図書館蔵、 高木 侃「泣いて笑って三くだり半―女と男の縁切り作法 (江戸東京ライブラリー)」

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