「天下分け目の決戦」として知られる関ヶ原の戦い。
徳川家康と石田三成が多くの大名を動員、東西両軍に分かれて激闘を繰り広げましたが、その中でも異彩を放った島津軍(大将:島津義弘)のお話。
尚古集成館蔵・島津義弘像。
島津軍は三成の率いる西軍に与しながら、総大将である三成の出撃要請を拒否、その場に居座り続けました。かくして気づけば戦も終わっており、味方である西軍はみーんな退散。
そして……家康の率いる東軍十数万に、ほぼ完全包囲されてしまいました。つまり「わざわざ関ヶ原まで来たのに、何もしないで気づいたら絶体絶命のピンチ!」状態です。
一体、何しに来たんでしょうね(汗)
■進めば地獄、退くも地獄……島津義弘の下した決断

関ケ原町歴史民族資料館「関ヶ原合戦図屏風(六曲一隻)」より。
中央に島津義弘、その下に甥・豊久の名が見える。
さて、島津軍の兵力はおよそ千五百、対する東軍は徳川家康はじめ諸大名の軍勢が大集結、トータル十万オーバー。その差は実に約66倍(!)普通に戦って勝てる訳がありませんが、と言って背後の山に逃げ込んだところで土地勘もなく、迷った挙句に落ち武者狩りで殺されるのがオチ。
どっちにしても助からない。
ならば。
「泣くよかひっとべ!死ぬ時ゃ笑って前のめり!」
……とは多分言っていませんが、島津義弘は、敵陣のど真ん中を指しながら、全軍に「退却」を命じました。
※泣くよかひっとべ、とは「案ずるより産むがやすし」の薩摩バージョン(慣用句)です。
■御大将を守り抜け!薩摩武士の「捨て奸(がまり)」

さぁ「千五百で十万の敵に突撃」という前代未聞の「退却」が始まりました。元より勝利は期せず、島津軍の目的はただ一つ。千五百人が一丸となって、十万の敵から「御大将・島津義弘を守り抜く」こと。
降りかかる火の粉を払うように、追いすがる敵の大軍を振り切ります。そんな極限状況で島津軍の生み出したのが、後世名高い「捨て奸(がまり)」。
殿(しんがり)の中から火縄銃を持った数名~十数名を残し、迫りくる敵(特に指揮官)を狙撃。次の弾を籠める時間はないため、一度撃ったら火縄銃は放棄して敵に突撃(死ぬまで戦う)。そして時間を稼いだら、次の地点ではまた次の数名~十数名が待ち伏せていて……を繰り返します。
いわゆる「トカゲの尻尾きり」戦法ですが、この手で島津軍は本多忠勝や井伊直政と言った徳川軍の猛将たちを撃退。ついに島津軍は関ヶ原を脱出し、伊勢街道経由で薩摩まで逃げのびたのでした。
とは言え、島津軍も義弘の甥である島津豊久や家老の長寿院盛淳を失うなど多大な犠牲を出しており、薩摩まで生還できたのは義弘はじめ六十~九十名ほどと言うから、彼らの凄絶な「退却」ぶりが察せられます。
■なぜ退却に成功したのか?
それにしても不思議なのは、千五百で十万の敵に包囲されながら「なぜ全滅せず脱出できたのか」です。
その理由は、大きく三つ考えられます。
理由その一:島津兵の実力が全国に知られていたこと 現代でも「九州男児」は「たくましい男」の代名詞ですが、当時から九州の兵、特に薩摩武士の精強さは広く知られていました。
先年の朝鮮出兵において、島津軍一万が明軍二十万を撃退して「石曼子(シーマンズ)」と恐れられたことなど、その武勇伝は枚挙に暇がありません。
いくら圧倒的優勢であっても、一対一で立ち向かえば自分が負ける・殺される……そう思えば、東軍兵士の一人ひとりがつい尻込みしてしまうのも、無理からぬところでしょう。
理由そのニ:東軍が勝利に奢り、命を惜しんだこと そもそも、もう決戦は終わって東軍は勝利を確信、誰もが「勝利の恩恵にあずかりたい」つまり、島津軍なんかの相手をして「死にたくない」と思っています。
ただでさえ強い島津軍が死に物狂いで襲いかかって来ると知りながら、あえて追いかけたくなんてない(出来れば見逃したい)のです。(※そもそも戦うのは恩賞=生活のためであり、命に代えても武名を後世に残したい武士ばかりではないのです)
結局、特に勇敢だった本多忠勝・井伊直政らが少数で執拗に追いすがり、銃弾を浴びる結果となっています。
理由その三:誰もが御大将・義弘のため、命を惜しまず役割に徹したこと とは言え、死にたくないのは島津軍だって同じこと。ただ自分が強くて相手が及び腰なだけでは、千五百と十万の圧倒的兵力差を覆すことは難しいでしょう。
しかし、薩摩武士は違いました。
あくまでも「御大将・義弘を生還させる」事を目標と定めた以上、誰もが自分の命を惜しみませんでした。
だからこそ「捨て奸(がまり)」は威力を発揮したし、義弘が指名した以外の者さえも捨て奸を熱望したと伝わります。
義弘がいかに家臣たちから敬愛されていたかが偲ばれるエピソードです。
■「島津の退き口」とその成果

島津宗家の定紋「丸に十文字」。
かくして成功を収めた島津軍の退却ぶりは、後世「島津の退き口(のきぐち)」と呼ばれ、薩摩武士の精強さをより一層天下に知らしめました。
その甲斐あって、関が原の戦後に徳川家康が西軍の諸大名(石田三成・毛利輝元・宇喜多秀家・長曾我部盛親・上杉景勝など)を次々と処罰した時も、島津だけは一切「お咎めなし」とされています。
理由には諸説ありますが、何より効いたのは「島津軍の強さ」でしょう。いくらボロボロに負かしたと言っても、島津軍の損害はたかだか千数百。
島津の本拠地・薩摩には、関ヶ原であれだけの戦いぶりを見せつけた島津軍が、数万単位で待ち構えており、それが全員、もう「逃げ場もない」ので死に物狂いで徹底抗戦……考えるだけでもゾッとします。
また、関が原と違って今度は「豊臣秀頼公をお守りする」大義名分がなく、徳川家康の私戦となるため、諸大名を動員できない(むしろ道中、妨害されるかも)……等々、政治的な理由からも、島津には手が出しにくかったのです。
あたかも関が原で「捨て奸(がまり)」となった武士たちの英霊が、薩摩と島津家を守り抜いたように感じます。
■その後・ある古武士の涙
さて、関が原から十数年後。
かの死地から生還した中馬重方(ちゅうまん しげかた)という古武士が、鹿児島からやってきた若者たちに関が原での話を聞かせたそうですが、
「関ヶ原と申すは……」
重方はそう語り始めるなり声が詰まり、涙にむせんで言葉が出なかったと言います。
それは何の技巧も演出もない、彼がただあの場で感じ、身体に刻み込まれたままを、誠心誠意伝えた結果に他なりません。
あの場にいた、薩摩武士の誰もが願ったこと。
「御大将・義弘を守り抜く」
命を惜しまず戦い抜いた結果、自分は生きてここにいる……そんな複雑な胸中が、彼の喉を詰まらせたのかも知れません。
■終わりに・義弘公の辞世と維新への血路
その後、島津家は二世紀半にわたる忍従の果てに復讐(倒幕)を遂げるのですが、その動機は常に「関ヶ原(の敗戦)」であったと伝えられます。
たとえどれだけ歳月が過ぎようと、死んでいった仲間たちの想いを受け継ぎ続けた薩摩武士たちの絆こそ、明治維新を成し遂げた原動力の一つと言えるでしょう。

この明治「維新」という呼称ですが、義弘公の法号(出家した名前)である「惟信」にちなむものと言われています。
春秋の 花も紅葉も 留まらず 人も空しき 関路なりけりこの二首は、元和五(1619)年7月21日に義弘公の遺した辞世ですが、関路とはまさしく「関ヶ原の退却戦」を暗喩しながら、あえて「空(むな)しき」と表現する辺りに、「島津の退き口」を成し遂げた薩摩武士の意地と、家臣たちへの想いが偲ばれます。
(大意:花も紅葉もはかなく散り、それを見る者さえいない関所の路よ)
四百年前、関ヶ原で切り拓かれた維新への血路――「島津の退き口」は今なお聞く者の胸を沸かせ、先人たちの勇気と大義を奉ずる自己犠牲の尊さを伝え続けます。
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