文豪・夏目漱石の名作『吾輩は猫である』は、このような書き出しで始まります。
「吾輩は猫である。
ここから分かるように、この作品の主人公の「猫」には名前がありませんでした。しかも最後は、名前をつけられないまま亡くなってしまいます。
現代の愛猫家なら口を揃えて「かわいそう!」と言いそうなエピソードですが、実は夏目漱石が飼っていたこの「猫」のモデルの猫にも、本当に名前がなかったことをご存知でしょうか?
■漱石一家と猫とのエピソード
夏目漱石が「猫」を飼い始めたのは、彼がまだ作家として一流と呼ばれるようになる前のことでした。
当時の漱石は作家業だけでは生計を立ててはいけず、大学で英語の教員もしていました。そのストレスもあってのことでしょうか、彼はやがて神経衰弱となり、イギリス留学から帰国する頃からは妻子にきつく当たったり、夜中に騒いだりと、人が変わったようになってしまったのでした。

千駄木にあった夏目家に、トラ模様混じりのグレーがかった黒い子猫がやってきたのは、そんな時期のことでした。
生まれて間もない小さな子猫は、猫が嫌いな漱石の妻・鏡子さんが何度追い出しても、いつの間にか夏目家に上がり込んでしまいます。それを見かねた漱石が「飼ってやったらいいじゃないか」と言ったことで、「猫」は晴れて夏目家の一員となったのでした。
この猫を見たあんま(マッサージ)師のおばあさんは、鏡子さんにこう言ったそうです。
「このような全身が真っ黒な猫がいる家には、福が舞い込みますよ」
それが実現したことは、皆さんご存知のとおりです。夏目漱石はその後「猫」をモデルにした小説『吾輩は猫である』を発表し、一躍人気作家の仲間入りを果たしたのでした。
■猫の死
そんな「猫」は、『吾輩は猫である』の発表の3年後の明治41(1908)年9月に病気で亡くなりました。
「この下に稲妻起る宵あらん」
という一句が書かれた墓標が立てられました。
更に漱石は門下生たちに宛てて、猫の訃報を報せる葉書まで送っています。漱石にとっても、いつしかこの猫の存在はかけがえのないものとなっていたのでしょう。
しかし、主人に大きな幸運をもたらした「猫」には、とうとう生涯名前がつけられることはありませんでした。鏡子さんは後に「だってあんな猫、誰も呼びやしないもの」と語っていたのだとか。
「猫」本人がこのことについてどう思っていたかは確かめようもありません。「おいで」と呼ばれているうちに「おいで」が名前になってしまった猫もいることから考えると、もしかしたら「猫、猫」と呼ばれ続けるうちに「自分は『猫』という名前の猫なのだ」と認識するようになっていたかもしれませんね。
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