歴史上の女性の中には その生涯のほとんどが謎に包まれている人物が多く存在します。あの織田信長の正室・濃姫もその中の1人です。
濃姫は、貧しい家の生まれから主君を次々と裏切り、 最終的には美濃一国を手に入れてのし上がり「まむし」とあだ名された斎藤道三の娘・帰蝶として、天文4(1535)年に誕生しました。
彼女が織田信長と結婚することになったきっかけは、彼女の父・道三と信長の父・織田信秀が、美濃で激しく争っていたことでした。
「まむし」の道三に手こずらされていた信秀は、いっそのことその道三と手を結ぼうと考えました。道三にとっても、美濃の隣国で強い勢力を持っていた織田信秀を敵に回すよりは、同盟を結んだ方が有利でした。
こうして天文17(1547)年、織田家と斎藤家の間に講和条約が成立します。その条件として、濃姫こと帰蝶と信秀の嫡男・信長の縁談がまとまったのでした。
狩野元秀画「紙本著色織田信長像」/Wikipediaより
つまり2人の結婚は、まさに戦国時代によくあった政略結婚だったというわけです。織田信長といえば、「うつけ者」と噂される青年だったことを皆さんもよくご存知でしょう。だらしない身なりと行儀の悪い態度で城下をうろつくなどの行動から、「奇人・変人」と囁かれていたのです。
しかし道三は、そんな信長に対し「むしろ、将来性のある大物かもしれない」と、興味をかき立てられたのでした。
■「もしかしたら、私が父上を殺すことになるかもしれません」
天文18(1549)年、帰蝶は15歳となり、いよいよ信長のもとへ輿入れすることとなりました。
両親に別れの挨拶を告げる彼女に、父・道三は懐刀を与え、
「信長が本当のうつけなら、これで殺すがよい」
と言いました。
それに対し、帰蝶はこう答えました。
「もしかしたら、私が父上を殺すことになるかもしれません」
帰蝶は、信長が「うつけ者」のふりをしているだけで本当はとんでもなく大物だったならば、父よりも彼を取り、そのまま戻らないかもしれない。それはつまり、父を殺すことになるかもしれない、と言ったのです。
さすが「まむし」の娘だけに、機知に富んでいたことが伺えます。これには、父の道三もタジタジだったのではないでしょうか?
■腹の探り合いの夫婦。しかし道三の死後は…
帰蝶は結婚後、「美濃から来た姫」という意味で「濃姫」と呼ばれるようになりました。この時代の政略結婚とは、敵方の家にスパイとして送り込まれることと同じです。濃姫も夫・信長の様子を観察し、実家に父に手紙で報告することを欠かしませんでした。
信長も信長で、濃姫に嘘を言って試しつつ、彼女の実家の内紛まで誘発しようとしたエピソードが残っています。夫婦とはいえ、お互い腹の内の探り合いで、一緒にいても気の休まらない仲だったことでしょう。
そんな2人でしたが、濃姫の父・道三が息子(つまり濃姫の兄弟)の裏切りにより殺される事件で、状況が一変します。この時信長も道三の同盟軍として出兵していましたが、「道三死す」の知らせを受けると、なんと退却してしまったのでした。
そしてこれ以降濃姫がどうなったかは、信長関連の資料のどこを見ても書かれていないのです。

濃姫之像(清洲城模擬天守横)/Wikipediaより
一説では、濃姫は本能寺の変まで生き、信長と共に亡くなったとされています。また織田家の菩提寺の過去帳には「信長公御台(信長の正室)」という文字が見られ、それによるとこの人物は信長の死後30年以上も生き長らえていたとのことです。
その他にも、実は信長とは離婚していたなど、様々な仮説があります。生涯に謎が多いからこそ、「ミステリアスな姫」として人気を呼んでいるのかもしれませんね。
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