ザビエルは、イエズス会に所属していた宣教師のことでわが国に初めてキリスト教をもたらした人物として日本では知られています。彼の肖像画を見て、「あ!あの人ね」と思い出す読者も多いのではないでしょうか。


今回は、日本にとってゆかりがあるのに、日本人にあまり知られていないフランシスコ・ザビエルの生涯についてまとめてみます。

■激動の時代に生を受ける

彼が生まれたのは、1506年。日本ではちょうど戦国時代にあたります。ナバラ王国(現在のスペインの一部)のハビエル城でのことでした。地方貴族の5人兄弟(兄2人、姉2人)の末っ子として育てられました。父はドン・フアン・デ・ハッソ。国王の宰相をしていました。フランシスコが誕生した頃にはすでに60歳を過ぎていたといいます。

母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタの二人。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってましたが、フランシスコが6才のときに戦争で国が消滅。そのストレスで父も亡くなり、城も退去せざるを得ませんでした。

フランシスコが育ったのは、このような激動の時代。
この経験が彼の宣教師としての生涯に影響を与えていたことは間違いありません。

日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエル。意外と知...の画像はこちら >>


ザビエルが育ったハピエル城

■哲学を学ぶも、聖職者の道へ

フランシスコは、1525年に19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいました。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていましたが、友人の影響を受け聖職者を志すようになります。やがて6人の仲間とイエズス会というカトリックの団体を結成。世界中にキリスト教を広める活動をはじめます。

当初、インドのゴアで宣教していたザビエルは、薩摩(鹿児島)からマレーシアに逃亡中のアンジロウという日本人に出会います。アンジロウは人殺しをして日本から現地へ逃げてきたものの、罪を反省し、救いを求めキリスト教徒に改宗しました。彼の信仰心に感動したザビエルは、その手引きで、日本に行くことを決意したのです。

■日本での布教とザビエルの死

当初、薩摩に着いたザビエルたちは、領主の島津貴久から布教の許可をもらいます。ところが当地で仏教僧による迫害を受けたため、平戸(長崎)や周防(山口)に逃れます。周防では日本初の教会堂を与えられ、600人もの日本人がキリスト教徒になったと伝えられています。


その後、ザビエルは、九州から大阪、京都にまで布教活動をこなし、2年3ヶ月の間、日本に滞在しました。日本を去ったザビエルは、いったんゴアに帰任しますが、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、中国行きを決意。1552年、中国の上川島に到着しましたが、現地で亡くなってしまいました。46歳でした。

■ザビエルの死、その後…

ザビエルの死後、その遺骸は石灰を詰めて納棺し当初は現地で埋葬されましたが、ザビエルを慕う人々によってマラッカ、続いてゴアへと移送されました。そのうち、右腕の一部は、1614年にローマのイエズス会の命令でセバスティアン・ゴンザーレスにという人物によって切断されローマへ運ばれました。

この際、本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしり、奇跡を起こしたと伝わります。現在、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されていますが、1949年(ザビエル来朝400年記念)、1999年(同450年記念)には日本にも運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示されました。

ザビエルの遺骸は現在、インドの遺骸はボン・ジェズ教会に安置されており、10年に1回のご開帳の際、その姿を拝むことができます。

日本にキリスト教をもたらしたフランシスコ・ザビエル。意外と知られていないザビエルのその後


ボン・ジェス教会に安置されている聖フランシスコ・ザビエル

日本のキリスト教布教に大きな影響を与えた人物ザビエル。彼は現在でもカトリックでは聖人として扱われています。ザビエル亡き後も多くの宣教師が彼に続き、日本や東アジアの地域にキリスト教を布教させました。


高校や中学校の歴史の教科書では、ほんの1,2行程度しか触れられていない人物。実はすごい人だったということ、おわかりいただけましたでしょうか。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

編集部おすすめ