摂関政治と院政期に現れた「幼すぎる天皇たち」まとめ
1164年、六条天皇は二条天皇と伊岐氏(大蔵大輔致遠の娘)の間に誕生。
平清盛肖像 Wikipediaより
1165年、病気が重くなった二条天皇は、生後7ヶ月の順仁親王(六条天皇)に位を譲りました。数え年では2歳という若さです。生母は身分が低かったため、順仁は、二条天皇の中宮・藤原育子を養母として育てられました。
即位式では、途中でぐずって泣き出し、乳母の乳を吸ってようやく泣き止んだという話も伝わっています。もちろん、実際に政治を行うことは不可能だったため、政治は外伯父で摂政である近衛基実と邦綱が表向き取り仕切りました。
二条上皇が病気のため亡くなると、二条天皇と仲の悪かった後白河上皇が力を取り戻しました。後白河上皇は自分の子どもである憲仁親王を皇太子にし、院政を復活させます。そして、わずか3年で六条天皇を譲位させました。このとき六条は数え年で5歳。
天皇の座を降りた六条上皇は退位後、後白河上皇の御所で養われましたが、病気にかかったため源行綱(ゆきつな)の東山邸へで療養することになりました。そして1176年。13歳の若さで亡くなり、元服することもなく清閑寺の小堂に土葬されました。
仕方のなかったこととはいえ、ときの天皇家の勢力争いに巻き込まれてしまった形で一生を終えた六条天皇。何を思い、どう生きたのでしょうか。陵墓は京都府東山区にありますが、知名度の低さのためか訪れる人は少なく、今も静かにときの移ろいを見守っているだけです。

六条天皇の陵墓 清閑寺陵
六条天皇の陵墓 清閑寺陵へのアクセス
所在地:京都府東山区清閑寺歌ノ中山町
京都駅烏丸口から京阪バスに乗り、「清閑寺 山ノ内町」下車 徒歩約10分
六条天皇
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan