■羽織は陣羽織が原型。女性が着始めたのは芸者が発端

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羽織 今でこそ女性も当たり前のように着てますが、実はこれ本来は男性用なのです。元は陣羽織から発生して防寒着の役割をもったもの。武士の最高位の礼服は将軍などに謁見するときや登城する際の「裃」姿ですが、紋付き羽織袴は士分以外の最上位の礼服となりました。

ですので羽織は訪問先では脱ぎません。西洋のスーツも、訪問先や人前では上着を脱ぎませんよね。脱ぐと「着流し」と呼ばれて遊び人や吉原の通人などによく見られました。町人の羽織は柄が派手なものや糸を盛ったりしてどんどん華美に。紋付き以外はカジュアルになっていきます。

で、なぜ女性が身につけるようになったかというと辰巳芸者(深川芸者)が着始めてから。辰巳芸者は芸名で「音吉」「豆奴」など、男性名を名乗っていました。遊女とは違い、男に媚びず、芸は売っても色は売らない心意気を表したといいます。そんな芸者たちが「男勝り」に男物の羽織を羽織ったことから、粋でかっこいいと真似する女性があらわれます。


しかし着衣の乱れが風紀を乱すということで、幕府からたびたび着衣を禁じられました。

ちなみに武士も裃など礼装以外で町を出歩くときなどに羽織を着ていました。素材や織りには決まりごとがあり、四月は袷の上に縮緬、五月は単の上に絽、六月は帷子の上に紗でした。

■じゃあ女性は何着てた?

半纏(はんてん) 着衣を禁じられた女性が、羽織の代わりに定番としたのが半纏。元は職人や鳶の者の日常着でした。江戸後期になって黒襟の綿入れ仕立てにして、防寒着としました。両脇に襠(まち)がないので窮屈羽織とも呼ばれました。

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袖頭巾
江戸時代の防寒どうしてた?実は羽織は男性専用だった。町人女性の「上着」の種類あれこれ


『十二月ノ内 霜月酉のまち』(嘉永7年 歌川豊国)

片袖形の頭巾は元は僧侶が被り始めたもので御高祖頭巾とも呼ばれました。素材は縮緬などが使われました。さらに手ぬぐいを上から巻き付けて飛ばないような工夫も。江戸時代に女性の髷の多様化が進み、髪型を崩さずかつ手軽に防寒できるという物で定番に。現代で言うとマフラー代わりですね。


褞袍(どてら)

さらに半纏よりも分厚い綿入れが褞袍。こちらは外出用ではなく主に部屋着。上方では丹前と呼ばれました。

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『今様三十二相 さむ相』(歌川豊国)

道行・道中着 道行きは、額縁状に襟が空いた四角い和服用コートのこと。道中着は体の前で左右の見ごろを合わせてやや体の脇で紐で留める上着です。羽織とは異なりあくまで外出着なので、部屋の中に入るときには脱ぐのが礼儀です。

原型はポルトガル人やスペイン人宣教師が渡来した際、着ていたマントを真似て考案された合羽から。寛文の時代に考案されたといいます。

袖のない丸合羽と、袖をつけて前を打合せにした袖合羽がありました。羽織りや半纏と違うのは、襟が立っていて首元が暖かいということですね。

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『十二月の内 極月』(嘉永5年 歌川豊国) この遊女は客の合羽を着ているのでしょうか?

現代のような形になったのは、明治中期の28年~29年頃、女性用外出着として、東(あずま)コートが始まりとされています。

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現在の道中着(写真提供:photo AC)

いかがでしょうか。
袖も襟もスースーする着物ですが、江戸時代は様々な工夫で寒さを凌いだようですね。これからお正月になり和装する事も増えると思いますが、現代のマナーでは室内で羽織は脱がなくてもいい、道行きや道中着・和装コートは脱ぐ、と覚えておくと便利です。

  • 参考文献:『浮世絵に見る日本の二十四節気』藤原千恵子(河出書房新社)
  • 参考サイト:風俗博物館


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