政治の世界では国の予算をどう確保するか、増やすかということが一つの大きな政治上の課題。それは江戸時代とて同じこと。
この時代、幕府としては無尽蔵にあるわけではない幕府の財布をどのように増やすかということが重要な関心ごとの一つでした。その一環としての江戸の三大革命。読者の中では名前とともにそれぞれの改革の違いを覚えさせられた方も多いのではないでしょうか。「享保の改革」「寛政の改革」「天保の改革」…なんてね。
「享保の改革」と「寛政の改革」あいだに、「田沼意次による政治」なんてものもありました。もちろん、この三大改革以外にもそれぞれの時代において、それぞれのキーパーソンが少しずつ改革を主導してきました。
けれども260年の太平の世が続いた江戸時代、授業数に限りのある社会科の授業で扱うのにはあまりにも時間が足りな過ぎる…この辺りをわけのわからないままさらっと流されてしまったという方も少なくないかと思います。
松平定信 (wikipediaより)
今回は、「享保の改革」の後の田沼意次の政治と松平定信が主導した「寛政の改革」でなされた財政政策のポイントと違いを抑えながら、この時代の改革がどういうものだったのかを改めて考えてみましょう。
■商品経済に財源を求めるように
田沼意次が政治の中心にいた時代、当時の社会経済は商人が徐々に資本(お金)を蓄積し力を持ちつつあった時代でした。いつの世でもお金のあるものに力やゆとりが生まれるのは必定。
それまで江戸時代の財源といえば農民から徴収する年貢(米)が中心でした。しかし田沼は財源の主な徴収元を年貢よりも発展しつつあった商品経済に財源を求めたのでした。
具体的には、特権的な株仲間と結託して、冥加金・運上金という間接税を徴収して幕府財政の増収を図ったわけです。田沼のこのように商人や商業に重きをおいた政策を≪重商主義≫なんていいます。

田沼意次 (wikipediaより)
一方、この田沼の政策を「本末転倒である」と断罪したのが、寛政の改革を断行した松平定信です。彼は、商業より農業、カネよりコメ、道徳倫理の重視、外国貿易の縮小、鎖国の祖法化、蝦夷地の開発の中止などを行いました。
その一方で、定信は江戸町会所を設立し、今でいう福祉政策である「七分金積立」をスタートさせました。1791(寛政3)年、京・大阪についで江戸でも七分金積立による囲籾(かこいもみ)が始まりました。
江戸は食料を消費するだけの消費都市となっていたからこそ、飢饉などが起これば食糧問題が深刻化します。幕府は江戸の住民に「町人用の減額し、それをもとに飢饉・災害などの非常事態に備える囲籾と積金を行うのだ」と。
松平定信による寛政の改革は、とにかくお金を使わない、庶民にも使わせないという徹底した方針でした。
定信はこのような時代に対応するために、徹底して改革に取り組んだのでした。
■厳しすぎる倹約は庶民の反感を買いやすいもの
ところが厳しすぎる倹約や締め付けはかえって庶民の反感を買いやすいもの。ときの狂言師・太田南畝は、寛政の改革を次のような狂歌で皮肉りました。
「世の中に 蚊ほどうるさき ものはなし ぶんぶというて 寝てもいられず」
これは、蚊の飛ぶ音の「ぶんぶ」と「文武」をかけているもので、定信が寛政の改革で社会を引き締めるために「文武政策」を徹底したことを揶揄したものです。
田沼意次の行おうとしていた政策は、定信によって否定され、定信の行おうとしていた政策はかえって庶民の批判を買ってしまう結果となってしまいました。
田沼と定信のこの逸話は、万民が納得するような政策をとることは、難しいということを象徴しているようにおもいます。現代の政治においても、高い支持率を得る政策をするということは難しいことなのかもしれませんね。
ただ、田沼の時代も定信の時代も、その時代における最善の方法をそれぞれ考えて、実行していったことには間違えはありません。それぞれが活躍した時代の社会情勢も考慮して考えて歴史をみていったとき、その選択権はまちがっていなかったということに気がつくことができるとおもいます。
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