熊本城のお城の入り口付近にある「宇土櫓」と呼ばれる櫓の近くには、「五郎の首掛石」と呼ばれる変わった形の石が残されています。
この石は、熊本城築城のさいに、五郎という名前の怪力の青年が首からかけて運んだ石と伝えられています。五郎の名前は、横手五郎。勇将木山弾正の遺子と伝えられ、現在の熊本県横手で育ったと伝えられています。父は、勇将木山弾正と伝えらえています。
1859年、父・弾正は天草一揆の際、志岐麟仙に味方して加藤清正に一騎打ちを挑みますが、あえなく破れて戦死してしまいます。そこで五郎は、成人して後、清正を父の仇と狙い、熊本城築城の際は人夫にやつして父の恨みを晴らす日にちを今か今かと待ち続けていました。
ところが、やがて彼の素性は見破られ、井戸掘りの際に突き落とされます。そして、井戸の上から大石を投げて五郎は殺されそうになるのですが、投げられた石すべてを受け止めてしまいます。そこで上から砂を流し込み、五郎を生き埋めにして殺しました。

熊本城の築城を主導した加藤清正
この話が史実だったかどうかわかりません。でもこの伝説から少なくとも、天草一揆の後、加藤清正を恨んでいた人々が相当数存在していたということです。
また、築城の際、工事の無事を願って選ばれた人間を人柱にして石垣に生き埋めにしたなんて話も、あちこちのお城の築城に伴う伝説としてまことしやかに語られています。
五郎の伝説は、土地の人たちによる権力に対する日頃の鬱憤と人柱が行われていた事実を私たちに伝えるものなのかもしれません。
「首掛石」という呼び方も気になります。「首掛石」とはすなわち、「斬首された首を掛けた石」とも解釈できます。この石に実際に斬首された首が晒されたかどうかはわかりませんが、石の形状から見てさらし首にできないこともないです。そもそもどうしてこの石はこのような形状をしているのでしょうか。その謎はいまだに解けていないのです。
もしかしたら一揆の関係者が人夫の中に紛れ込んでいて、彼を殺した首が掛けられていたのかもしれません。
また、「五郎(ごろう)」は「御霊(ごりょう)」という音にもつながることから、実際に「五郎」という名の人物ではなく、別の名前の人間だった可能性もあります。
いずれにしてもこの石にまつわる謎は深そうです。
熊本城
- 参考:「五郎の首掛石」『日本には城がある 攻城団』
- トップ画像:熊本城公式サイトより
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