かつて筆者にそう言った人がいましたが、中国の古典『大学』に「修身斉家治国平天下(※)」とあるように、教育(ひとづくり)とは学ぶ個人だけに留まらず、家庭や社会、ひいては天下に至るまで、未来につながる希望となるのです。
(※)修身斉家治国平天下(しゅうしんせいかちこくへいてんか)たとえ今は貧しくても、それに負けることなく学問を修めて教育を施し、次世代に、未来に希望をつないで行こう。
「身が修(おさ)まれば家が斉(ととの)い、家々が斉えば国が治まり、国々が治まれば天下が平らぐ=平和になる」のだから、まずは一人々々が我が身に学問を修めるところから始めよう、という意味の言葉です。
今回は、そんな信念を持って幕末から明治に生きた偉大な政治家にして教育者、小林虎三郎(こばやし とらさぶろう)が訴えた「米百俵(こめひゃっぴょう)」のエピソードを紹介したいと思います。
■北越戦争に敗れ、極貧の長岡藩
時は幕末・慶応四1868年。徳川幕府を討つべく北陸道を進撃する新政府軍に対して、越後国・長岡(ながおか)藩は果敢に抗戦。

歌川国輝「越後国上杉景勝家督争合戦」明治時代。政府に睨まれないよう、北越戦争を戦国時代に見立てて描いている。
これが後世に伝わる「北越戦争(ほくえつせんそう)」ですが、武運つたなく敗れ去った長岡藩は、後に赦免されるも石高を従来の74,000石から、約70%減となる24,000石に減俸されてしまいます。
武士の暮らしぶりと言えば、大名から三一(さんぴん。三両一人扶持=最低限の年俸=最下級の武士)までさまざまですが、年収がいきなり約1/3まで落ち込めば、どんな人でも困ってしまいます。
案の定、長岡藩の皆さんは大いに飢えてしまいましたが、それを見かねた三根山(みねやま)藩が、人道支援として米百俵を寄付してくれました。

三根山藩から運ばれる米百俵(イメージ)。
「おお、これで少しは暮らしが楽になる……」
領内に運び込まれた米俵の山は、長岡藩士たちにとって、まさに「希望」であったことでしょう。
さっそく米を分けてもらうよう、お城に押し寄せたことでしょうが、米の配給に「待った!」をかけた人物がいました。
それが長岡藩の大参事(だいさんじ。家老に相当する役職)であった小林虎三郎です。
■「今日の辛抱が、未来の希望に」
「……米は配給せず、売却した代金を教育機関の建設に充てる」
虎三郎の発言を聞いて、長岡藩士たちは大激怒です。
「今日明日食うにさえ困窮している状況で、教育などと呑気なことを!」
「今すぐ米をお分け下され!」「そうだそうだ!」
それでも虎三郎は決して折れませんでした。

小林虎三郎(文政十一1828年~明治十1877年)、Wikipediaより。
「この米を、一日か二日で食いつぶしてあとに何が残るのだ。国がおこるのも、ほろびるのも、まちが栄えるのも、衰えるのも、ことごとく人にある。……この百俵の米をもとにして、学校をたてたいのだ。この百俵は、今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか、百万俵になるか、はかりしれないものがある。そんな虎三郎の思いにみんな打たれたのか、それとも虎三郎が権力で押し切ったのかはともかく、米百俵の売却資金で「国漢学校(こっかんがっこう)」が創設されました。いや、米だわらなどでは、見つもれない尊いものになるのだ。その日ぐらしでは、長岡は立ちあがれないぞ。あたらしい日本はうまれないぞ。……」
※山本有三の戯曲「米百俵」より
国漢学校には国学・漢学に加えて洋学・兵学・医学の五局(学部)が設置され、士族(武士)だけでなく入学試験に合格すれば庶民でも学べる、先進的な教育機関として長岡藩の文明開化に貢献したのでした。
■まとめ
現在、国漢学校の流れをくむ新潟県立長岡高等学校は文科省より「スーパーサイエンスハイスクール」に指定されるなど、日本の次世代を担う科学・技術者の育成を目的として理・数教育に力が入れられています(第3期指定:平成三十2018年4月~)。
かつて虎三郎たちが我慢した「米百俵」で始まった教育(ひとづくり)が、代々受け継がれて世界と伍する科学・技術力を培い、日本の希望を担っています。
教育(ひとづくり)こそ、未来の希望(くにづくり)。先人たちが貧しさに耐えて「学べる豊かさ」を築き上げ、現代の私たちに受け継いで下さったことこそ、何よりの遺産ではないでしょうか。
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