日本昔話で「奥山に棲む老女が旅人を泊め、その人が寝静まった後に食べてしまう」という類いの鬼婆伝説は、誰しもが聞いたことがあると思います。
筆者の記憶にあるのは「修行の旅を続ける僧が、ある日、人里離れた安達原(今の福島県安達太良山付近)で夜を迎えてしまい、一軒のあばら家に一晩の宿を求めたところ、その女性が実は鬼婆だった」という話。
鬼のいぬ間に「開けてはならぬ」と言われた部屋を開けたら、そこにたくさんの死体が。一目散に逃げ出した僧を、怒った鬼が追ってくるくだりには、子どもの頃は本当に肝を潰したものでした。
さて、これは「謡曲 黒塚」の話で主人公は熊野の僧、東光坊祐慶。最後は観音様の加護により見事成敗します。
しかし、元になった「安達ヶ原の鬼婆」伝説がある地元の福島県安達ケ原では、鬼婆がなぜ人を襲っていたかを語っています。実は人の肝を食らうようになった、とても悲惨な理由があったのです。
■鬼になった理由とは
謡曲 黒塚に出てくる和歌「みちのくの 安達が原の黒塚に 鬼こもれりと 聞くはまことか」。
これは三十六歌仙の一人、平兼盛(~991年)が詠んだもの。伝説はその以前からあったのか、この歌が下敷きになったのかはわかりません。
安達ヶ原のお話はこうです。
昔、京都の公卿屋敷に岩手という名の乳母がおり、姫を手塩にかけて育てていました。
ある日姫が重い病気にかかり医者に診せたところ治りません。
岩手は生き肝を求めて旅に出ましたが、妊婦の生き肝などたやすく手にはいるはずもなく、いつしか安達ケ原まで足をのばしていました。岩手はそこの岩屋に落ち着き、女の旅人を待ち続けることにしたのです。
そして姫の身を案じながら何年も経過したある日のこと。
生駒之助と恋衣(こいぎぬ)という夫婦が宿を求めてきました。しかも恋衣は、岩手が待ちに待った妊婦です!岩手がどのように殺してやろうかと思案していたその夜、恋衣が産気づき、しめたとばかりに岩手は生駒之助に産婆を呼びよう、つかいに走らせませす。
岩手は出刃包丁をふるい、苦しむ恋衣の腹を割き生き肝をとりました…。
しかし、恋衣は断末魔のきわに明かすのです。「幼い時京都で別れた乳母を探して旅をしてきたのに…」と。そして息をひきとります。
岩手が驚いて恋衣をみるとお守りが目にとまります。それは岩手が旅立つ時、姫に渡した物だったのです。
なんと手にかけた女性は実は何年も無事を願っていた姫その人でした。その姫に渡すために肝は、岩手の手にあります。
こんな悲しい結末ってあるでしょうか。

安達がはらひとついえの図(月岡芳年、明治18年、国立国会図書館より)
岩手はあまりの驚きと悲しみに気が狂い、そのまま鬼と化してしまいました。以来、宿を求めた旅人を殺し生き血を吸う「安達ケ原の鬼婆」として広く知れわたることになります。
鬼婆は阿武隈川のほど近くに埋められ、その塚は「黒塚」と呼ばれるようになりました。安達ヶ原の観世寺には、鬼婆の住家であった岩屋、出刃包丁を洗った血の池などが残っています。近くの老杉のねもとには鬼婆の墓「黒塚」もあります。
黒塚は、前述した謡曲「黒塚」の東光坊祐慶が成敗した際に手厚く葬ったと伝えられる塚です。

岩手が住んでいた岩屋。観世寺にて
なお祐慶は埼玉県の「大宮山東光寺」を創建したと実在の僧(1128年)。この地域にも鬼婆伝説があり、一度鬼婆発祥の地として安達ヶ原ともめたことも。

埼玉県の東光寺一帯は足立が原と呼ばれていた
時系列を考えると、平兼盛が歌を詠んだ時には既に岩手は鬼になっていたと考えられるので、
- 岩手、鬼になる(不詳)
- 平兼盛が鬼の歌を詠む(~991年以前)
- 東光坊祐慶が成敗する(1128年頃)
鬼になったことは伝説とはいえ、実際に起きた悲劇が下敷きになっていた可能性を考えると、やはり胸が痛みますね。黒塚は能の演目や歌舞伎にもなっています。実話にせよ伝説にせよ、人間の業と罪を伝える話として人の心を捉えて離さなかったのでしょう。
観世寺 二本松市安達ヶ原4-126
安達ヶ原(観世寺) – 二本松市公式ウェブサイト
東光寺 埼玉県さいたま市大宮区宮町3-6
東光寺
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