皆さんが生まれた時、その幸せな人生を願って素敵な名前をつけてもらったことと思います。その思いは古今東西変わりませんが、昔の人は人生の節目ごとに名前を変える「改名」がしばしばありました。


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生まれた時は幼名、元服(成人)すれば諱(いみな。実名・本名)を授かり、普段呼び合うには字(あざな。通称)を使い、官位を受ければそれも名乗り、出家すれば法名を号し、いよいよ亡くなれば戒名がつけられ……と言った具合です。

しかし、時にはしょうもないor理不尽な理由で改名させられることもあり、今回は鎌倉幕府の御家人である北条五郎時連(ほうじょうの ごろうときつら)のエピソードを紹介したいと思います。

■将軍御所の蹴鞠大会にて

時は鎌倉時代、亡き頼朝公の後継者として将軍職についた嫡男・源頼家(みなもとの よりいえ)公は政務を怠って蹴鞠や歌舞音曲に興じ、都かぶれや諂(へつらい)者を取り巻いてわがまま放題の振舞いが目立ち、心ある御家人たちは胸を痛めていました。

そんな理不尽な!しょうもない理由で改名させられた鎌倉幕府の御家人・北条時連のエピソード


加藤真菅「桜下蹴鞠図(部分)」明治時代

そんな建仁二1202年6月25日、将軍の御所で蹴鞠大会が開催された時のこと。大会前に夕立があって、すぐにやんだものの庭の元木(※1)がぐしょぬれになってしまい、「これでは袖や裾が汚れてしまう」と皆が困っていました。

(※1)蹴鞠をプレイするコート(懸-かかり)の四隅に植える木で、鞠を蹴り上げる高さの基準となる。艮(うしとら。北東)に桜、巽(たつみ。南東)に柳、坤(ひつじさる。南西)に楓、乾(いぬい。
北西)に松を配する。

すると、蹴鞠指南として京の都より下っていた壱岐判官平知康(いきのほうがん たいらのともやす)が庭に下り、自分の着ていた直垂(ひたたれ)や帷子(かたびら)を脱いで枝葉の水滴を拭いとりました。

その様子を見た一同は、さすがは都人の「逸興(いっきょう。すぐれて雅やか)」なる振舞いとほめそやし、申の剋(16:00±1時間ごろ)から大会を開始。頼家公はじめ名うての鞠足(まりあし。蹴鞠の名人)がフル出場し、時連も一緒になって、暗くなるまで大いに盛り上がったそうです。

■「連とは卑しき……」知康の暴言

さて、夜は鎌倉中のキレイどころ(白拍子や遊女)を召し集めて、呑めや唄えやドンチャン騒ぎ。皆さん大いに楽しんでいましたが、さすがは京の都人、世渡り上手の知康は、銚子を抱えてあっちゃこっちゃとお酌に余念がありません。

そんな中、時連の元へも回ってきた知康は、自分もしこたま呑んで酔っていたのか、口を滑らせて言い放ちます。

「五郎殿はイケメンで立ち居振る舞いも立派で上品、おまけに蹴鞠の腕前も抜群ながら、そのお名前が下劣にございますな」

【原文】北條五郎は容儀といひ進退といひ、抜群といひつべきところに、實名はなはだ下劣なり……

※『吾妻鏡』建仁二年6月25日条

いきなり面と向かって「お前の名前は下劣だ」とは、ずいぶんなご挨拶もあったものですが、戸惑う時連を前に、知康は得意気に続けます。

そんな理不尽な!しょうもない理由で改名させられた鎌倉幕府の御家人・北条時連のエピソード


銭を貫きまとめる「連-つら」。

「連(つら)とは銭に貫き通してまとめるヒモのこととて、卑しき庶民の道具にございます。
まぁ……かつて紀貫之(きの つらゆき)なる歌仙(かせん。和歌のカリスマ)がおりましたが、彼にあやかろうなど厚かましい。早う改名なされた方が……」

【原文】時連の連の字は銭貨を貫く儀か。貫之歌仙たるによつて、その芳躅(ほうちょく)を訪(とぶら)ふか。かたがた然るべからず。早く名を改むべき……

※『吾妻鏡』建仁二年6月25日条

そのやりとりを聞いていた頼家公は、時連を嘲り笑いながら改名を勧めます。

「はあ。然らば『時房(ときふさ)』とでも……」

不承不承ながらも時連は改名に同意し、後に北条時「房」と名乗るようになったのですが……。

■「許せない!」尼御台・北条政子の大激怒

そんな理不尽な改名に納得できないのが、頼朝公の未亡人で頼家公の母親、そして時連改め時房の姉である尼御台こと北条政子(ほうじょうの まさこ)。

「あの下郎、人の名前を何だと思っておいでかえ!」

都かぶれが君寵(※2)を嵩に、御家人たちを田舎者と侮って傍若無人の振舞い、それを許してしまう頼家公も頼家公です。

(※2)くんちょう。主君から寵愛(ちょうあい。
依怙贔屓)を受けていること。

そんな理不尽な!しょうもない理由で改名させられた鎌倉幕府の御家人・北条時連のエピソード


木曽義仲(左)と源義経(右)。知康が唆さなければ、もしかしたら……。

「……そもそもあの知康、かつて木曽義仲(きその よしなか)を唆して法住寺殿(ほうじゅうじどの≒そこに住んでいた後白河法皇猊下)を襲わしめたばかりか、その次は九郎殿(源義経)を誑かして亡き大殿(頼朝公)に謀叛を起こさせしめた天下の奸物(かんぶつ。悪人の意)……にもかかわらず、それを忘れて昵近(※3)を許すなど、いったい何をお考えか!」

(※3)じっきん。そば近くに仕えさせ、親しくすること。「じっこん」とも

親からもらった大切な名前を嘲り笑って改めさせる無情の仕打ち……このように人の心を土足で踏みにじる振舞いが度重なったため、やがて頼家公は将軍の座を追われ、元久元1204年7月18日、幽閉先の伊豆国・修善寺で暗殺されてしまいました。

■終わりに

言うまでもなく、名前とは人間の尊厳を表わす大切なもの。どんな親でも、我が子の幸せを願わずに名づける親はいないでしょう。

その思いを、いっときの酔狂で踏みにじればどうなるか。たとえその場は権力づくで黙らせられても、いつか必ず痛烈なしっぺ返しを喰らうことになります。

そんな理不尽な!しょうもない理由で改名させられた鎌倉幕府の御家人・北条時連のエピソード


「雑草という草はない。
どんな植物でもみな名前があって、それぞれ自分の好きな場所で生を営んでいる。人間の一方的な考え方で、これを雑草と決め付けてしまうのはいけない」

※入江相政『宮中侍従物語』より

かつて昭和天皇がそう仰ったエピソードは有名ですが、人間もまた、一人々々に名前=尊厳があって、それぞれに人生があり、大切な人がいることを認識すれば、少しは互いを尊重できる世の中に近づけるのではないでしょうか。

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