慶長5年(1600)の9月15日に関ケ原の戦いが勃発しました。日本が東軍と西軍に分かれて戦いを行った大規模な戦でした。


また、この戦いの勝者が天下の覇権を握れるということもあり、「天下分け目の戦い」とも称されています。

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関ヶ原合戦図屏風/Wikipediaより

そんな関ケ原の戦いで各大将、石田三成と徳川家康の勝利のために命を賭して戦った2人がいました。2人の名前は三成の友である大谷吉継と家康の忠臣、鳥居元忠です。

今回は吉継と三成、元忠と家康の関係と感動するエピソードを紹介したいと思います。

■大谷吉継と石田三成の友情物語!「友のためにこの命捧げよう!」

吉継は三成と同じ近江国出身で歳も同じだったことから少年時代から仲が良く賤ヶ岳の戦いでは共に奮戦しました。

そのことから豊臣秀吉に共に戦ったもう1人と「秀吉の三振りの刀」と称賛されています。

大谷吉継は友のために、鳥居元忠は主君のために…それぞれの想いのために関ヶ原の戦いで散った2人の武将たち


落合芳幾画『太平記英雄傳 大谷刑部少輔吉隆』/Wikipediaより

また、「計数の才」(計算に強い)があったので秀吉は2人をその部門に長けた奉行に附けたということもあってか、行動を共にするうちに自然と友情が生まれていきました。

戦国の世は昨日の友は今日の敵と言われるように友を持つということは滅多にありませんでした。友を持ったとしても利害の一致から一時的になるくらいだったので2人の関係は非常に稀でした。

2人の仲がより深くなったのは天正15年(1587)に大坂城で行われた茶会でした。 当時、吉継はある病気を患っていました。何の病気かは諸説あるのですが、感染する病気として周りから思われていました。


そのため、吉継の次に茶碗に手を付ける人は飲んだふりをして次に回していました。

この光景を見た吉継は何とも言えない気持ちになったに違いありません。しかし、三成だけが茶碗に入った茶を飲み干し、さらにもう一杯を所望しました。

この三成に思いに感動した吉継はこの先何があっても三成につき従うと決めたそうです。

その13年後に吉継は負けるとわかっていても三成の覚悟に賛同し、病気のため足が動かないので神輿に乗って出陣。

西軍の小早川秀秋の裏切りに合いながらも奮戦し、三成に想いを託すように関ケ原の地に散りました。

■徳川家康と鳥居元忠の絆!「わしのために死んでくれぬか?」

元忠は家康の人質時代から近習として苦労を共にしてきました。今川氏から独立した後、元忠は旗本先手役という合戦では一番先に敵陣に突撃していく精鋭部隊の1人となりました。

大谷吉継は友のために、鳥居元忠は主君のために…それぞれの想いのために関ヶ原の戦いで散った2人の武将たち


鳥居元忠像/Wikipediaより

人質時代から約50年の間多くの合戦と苦楽を共に過ごしていく内に元忠のことを家康は家臣ではなく友や幼なじみと思っていたかもしれません。

しかし、元忠は家康のことを主君として見ていました。

それを頷ける要因は感状を一切受け取らなかったことにあると思います。感状とは手柄を立てた者に主君が評価を加えるいわば、成績表なもので他家に再仕官する際に非常に有利なものでした。


元忠はこれを家康以外に仕える気がないということで拒否し続けたそうです。

もしかしたら、元忠も家康のことを友と思っていましたが、態度には出すことなくこのような行動で示したかもしれませんね。

そして、慶長5年(1600)の関ケ原の戦いが起こる前の7月中旬、家康は反逆を企てた上杉景勝のいる会津を攻めるために大坂を発ちました。

元忠の役目は三成と景勝の挟撃を防ぐため、京都の伏見城で三成率いる西軍の足止めでした。 残った元忠の元には1,800人の兵士のみ。また降伏は許されない状況の中で40,000人の西軍と戦うということは「死ぬまで戦え」と言われていると同じでした。

それでも元忠は家康の勝利のために戦い続け13日間西軍を伏見城で足止めし、城を枕に玉砕しました。

家康の勝利に大いに貢献した元忠はその忠義から「三河武士の鑑」と称されることになりました。

■最後に

戦一つとっても様々な武将たちのドラマがありますね。

このようなドラマがあるからこそ現代の私たちは武将に対して理解を深めるとともに想いに触れることができると思ってしまいますね。

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