毎日国内外からの多くの観光客で賑わう浅草。浅草寺でお参りをして、仲見世通りで食べ歩きグルメを満喫するのは浅草観光の定番ですね。
浅草から少しだけ足を伸ばして行ける東京の観光スポットといえば、東京スカイツリー。高さ634mの展望室からは眼下に広がるミニチュアのような東京の風景を楽しむことができます。

実は、今から130年前にも浅草には高層タワーが建っていました。その名も「凌雲閣」。今回は明治大正時代のスカイツリー「凌雲閣」をご紹介します。

■雲を凌ぐほど高い高層タワー「凌雲閣」誕生!

まさに明治・大正時代のスカイツリー!?日本初エレベーターも設...の画像はこちら >>


明治23年(1890)11月、当時の日本で一番高い52mの高層タワーが浅草公園に建てられました。そのタワーは「雲を凌ぐほど高い」という意味を込めて「凌雲閣」と名付けられました。12階建てだったことから「浅草十二階」とも呼ばれました。

1階から10階までは煉瓦造り、11階から12階は木造でした。10階から12階までは展望室になっていて、それより下の階にはお店が46店舗入っていました。展望室からは東京を一望することができ、房総半島も見渡すことができたとか。

開業日には約6,000人が押しかけ、大賑わいだったそう。
繁華街・浅草の新名所として一躍有名になり、当時の浅草を描いた風景画には必ず凌雲閣が描かれました。

■日本で最初のエレベーターは「凌雲閣」

まさに明治・大正時代のスカイツリー!?日本初エレベーターも設置された「浅草凌雲閣」って知ってる?


12階までどうやって上ってたの?と思った方。ご安心ください、エレベーターがありますよ。

現代人には当たり前のエレベーター。日本で最初に設置されたのがこの凌雲閣でした。凌雲閣のエレベーターは1階~8階に2つ設置されました。エレベーターには窓があり、壁3面には座布団が敷かれた腰掛が付いていました。

しかしこのエレベーター、開業日からいきなり故障…!翌年には落下防止装置が不十分という理由で使用中止になってしまいました。大正3年(1914)に使用が再開されますが、それまでの間は当然、階段を上っていました。

12階まで階段で上るなんて普通の人だったら、聞くだけで嫌になってしまいますよね。そこで、客足が遠のくことを避けるために企画されたのが、階段を上りながらのミスコンでした。4階から7階までに芸者100人の写真を貼り、来場者は階段上りながらその写真を見て投票する「東京百美人」という企画が始まったのです。


これで本当に人が集まるのか・・・という感じですが、客足はなんとか確保されたそうです。ちなみに、この「東京百美人」は日本で最初のミスコンでした。

■倒壊。そして現代によみがえった凌雲閣

大正12年(1923) 9月1日、強い揺れが関東地方を襲いました。関東大震災です。死者行方不明者は10万人を超え、帝都・東京は甚大な被害を受けました。

まさに明治・大正時代のスカイツリー!?日本初エレベーターも設置された「浅草凌雲閣」って知ってる?


この地震で凌雲閣は8階から上が倒壊し、それより下の階も傾いてしまいました。再建も検討されましたが、最後は経営難だったため、そのまま解体。その後、凌雲閣の跡地には劇場が建てられ、凌雲閣は人々の記憶として残されました。

しかし2018年 、浅草のビルの建設現場から凌雲閣の基礎部分である煉瓦が発掘されました。ビルの建設はそのまま続けられましたが、竣工したビルの壁面には凌雲閣の姿が。「凌雲閣を多くの人に知ってもらいたい」という事業主さんの意向により、塩ビフィルムに印刷された凌雲閣の浮世絵がビルに貼り付けられたのです。
倒壊のため姿を消した凌雲閣でしたが、こうして現代に再び姿を現したのでした。

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