寺社や武家屋敷などにいくと、一般宅ではあまり使われない煌びやかな文様の畳の縁を目にすることも多いと思います。
単に趣味や嗜好で柄を選ぶのではなく、昔は身分によって使用できる柄が決まっていました。
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■畳の歴史
現存する最古の畳は奈良時代の「御床畳」というもので、こざのようなものを数枚重ねて錦の縁をつけたもの。正倉院に保管されています。
畳は蓙(ござ)や筵(むしろ)から発展し、初期の頃は座布団のように必要なときに直接床に置いて使用する、小さくて薄い物でした。
現代に通じる分厚い畳になったのは平安時代。寝室などの部屋に部分的に一枚二枚据え置いて使うようになり、部屋いっぱいに敷き詰めるようになったのは室町時代。茶道と茶室により普及したといわれています。
京間と江戸間 畳の寸法は東日本と西日本で大きく分かれます。江戸間は2尺9寸×5尺8寸(880mm×1760mm)、京間は3尺1寸5分×6尺3寸(955×1910mm)。京間のほうが若干広いですね。
繧繝縁(うんげんべり・うげんべり) 繧繝というのは、朱・青・緑・紫などの色に濃淡をつけた彩色法のこと。その色に花菱やひし形の文様をつけます。
繧繝縁の畳に座る『足利義満像』(鹿苑寺蔵)/Wikipediaより
最も格の高い畳縁で、天皇・三宮(皇后・皇太后・太皇太后)・上皇が用いました。御所にある「高御座(たかみくら)」の畳にもあしらわれています。また、親王(嫡出の皇子・皇孫男子)や高僧、摂関や将軍などの臣下も、准三宮という称号が与えられれば用いることが出来ました。
神仏像や雛人形の親王雛にも繧繝縁の厚畳を敷いている場合があります。「源氏物語絵巻」では匂宮や女三の宮が座している畳は繧繝縁で、臣下が座しているのが高麗縁と描き分けられています。

大紋高麗縁(こうらいべり)/小紋高麗縁 白地に黒で、雲形や菊花紋を描いた縁。親王・摂関・大臣は大紋高麗縁、公卿は小紋高麗縁を使用します。現在では、大紋高麗縁は神社仏閣の座敷や茶室の床の間などで見ることができます。
小紋高麗縁は「九条紋」とも呼ばれます。現在ではめっきり無くなり、京都御所など限られた場所でしか目にすることができなくなりました。

大紋高麗縁の畳に座る『資本著色織田信長像』狩野元秀画、長興寺蔵/Wikipediaより

小紋高麗縁の畳に座る『冷泉為秀像』土佐光芳画/Wikipediaより
紫縁 603年(推古天皇11年)以降確立した日本の位階制度で、殿上人(五位以上の人および六位の蔵人〈くろうど〉で殿上にのぼることを許された人)が使用できました。ちなみに六位以下は黄縁、無位の者は縁なしでした。
京都御所では、紫縁ではなく赤縁を用いていますが、これは紫が変容したもので「紅絹(もみ)縁」とも呼ばれます。
茵(しとね) ちなみに畳ではありませんが、座布団に似た、四方の縁を錦などで囲った正方形の敷物でしとねというのがあります。やはり縁に決まりがあり位階の五位以上は黄絹、六位以下は紺布などとなっていました。
京都御所の天皇の御座所「昼御座(ひのおまし)」には繧繝縁の厚畳の中央にこれを敷いています。畳表を五枚重ねて真綿を生地でくるんであるので、一般的な座布団よりも厚みがあるようです。

畳の中央に見えるのが茵 『旧儀装飾十六式図譜』Wikipediaより
■畳の縁を踏んではいけないワケ
ついでにちょっとトリビアを。子供の頃から「畳の縁は踏んではいけない」と教わった方も多いでしょう。それには複数の説がありますのでご紹介します。
たしなみ 紹介したように、縁にはその模様の理由があります。特に家紋をいれる「紋縁」を踏むことは先祖の顔を踏みつけることにもつながります。なので、自分の家でも他家でも縁を踏まないことがたしなみとして定着していったという説。
敵から身を守るため 武士が命の狙われることの多かった戦国時代。
傷めないため 縁は植物で染められていたため、踏むことで色あせが進行してしまうのを防ぐため、またぐようになったという説。
いかがでしたでしょうか。位階制度のあった過去の日本。武将の肖像画を見ると、朝廷から賜る位が高くなるにつれて畳縁が変わっていくので、面白いと思います。
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