歴史の授業で「北面武士(ほくめんのぶし)」という言葉を記憶している人もいるかと思います。

上皇(じょうこう。
太上天皇の略称で、皇位を譲られた天皇陛下のこと)の身辺警護を務めた武士団で、白河法皇(しらかわ ほうおう)が平安後期の康和年間(西暦1099~1104年)ごろに創設したと言われています。

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北面武士を創設した白河法皇、Wikipediaより。

そのネーミングは彼らが院御所(いんのごしょ。上皇や法皇のお住まい)の北側(北面)に詰めていたことに由来するのですが、なぜ北側だったのでしょうか。南や東ではいけなかったのでしょうか。

その理由には諸説ありますが、一つのヒントが鎌倉時代に登場します。

■「西に向いて奉公する」西面武士

後に承久の乱を惹き起こした後鳥羽上皇(ごとば じょうこう)は、鎌倉幕府との決戦に備えてか、従来の北面武士に加えて西面武士(さいめんのぶし)を新設。頼朝公の死後、文弱に流れがちな鎌倉幕府を尻目に、若い子弟を集めて尚武に邁進したそうです。

東や南じゃダメなの?上皇の身辺警護を務めた「北面武士」が北向きに奉公した理由


西面武士を創設した後鳥羽上皇、Wikipediaより。

ところで、北面の次に西面と定めたのは単なる偶然や気まぐれではなく、この順番でなくてはなりませんでした。

面とは顔を表わす「おもて」とも読み、直面する、などのように「向かう・向ける」という意味もあります。

武士たちが北や西に「顔を向けて」何をするかと言えば奉公に他ならず、その先には主君の存在があります。


もちろん警護の現場では主君に背を向けていることが多いのですが、あくまで観念的な話です。

■望ましい主従の位置関係

それを踏まえて、今度は武士たちの奉公を受ける立場から見てみましょう。

北面武士が北を向いて仕えている時、彼らと向き合ってその忠誠を受ける上皇陛下や法皇猊下は、当然(観念的には)南を向いています。

時に、神棚を設(しつら)えたことのある方はご存じと思いますが、お社≒神様の向きは南が最上、次いで東向きとなり、お参りする人間は、当然北向き、もしくは西向きとなります(※地形など諸事情により、例外もありますが)。

東や南じゃダメなの?上皇の身辺警護を務めた「北面武士」が北向きに奉公した理由


神様は、南向きがお好き(イメージ)

八百万(やおよろず)の神々の頂点におわす天照大神(あまてらすおおみかみ)の直統子孫である皇室は、神様と人間の媒(なかだち)ですから、皇室に対しては神様と同じく敬愛する姿勢が求められました。

そこで、皇室をお守りする武士たちは北を向き、西に向いて奉公したのであり、たとえ物理的に東側や南側を守っていたとしても、東面武士とか南面武士といったものは原則的にありえませんでした。

このように望ましい主従の位置関係を表わすため、往時の武士たちは主君に対して「北面」「西面」したのでした。

■終わりに

【問】北面武士はなぜ北向きなの?
【答】神様は南向きが好きで、その子孫である皇室と向き合ってお仕えしたから。

承久の乱で鎌倉幕府に敗れた後鳥羽上皇が隠岐国(現:島根県隠岐郡海士町)に流されると、西面武士は早々に廃止され、朝廷の武力を削ぐために北面武士も規模を縮小、次第に有名無実化していきました。

東や南じゃダメなの?上皇の身辺警護を務めた「北面武士」が北向きに奉公した理由


御所を警護する武士たち。鎌倉時代『平治物語絵巻』より。

それでも家門を示す名誉職として北面武士は明治維新まで存続し、任務に当たった武士たちは「院御所をお守りする」誇りを胸に、堂々と務め上げられたことでしょう。


※参考文献:竹内理三『日本の歴史 (6) 武士の登場』中央公論社

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