失言や油断、勘違いや短気などの小さなミスは、誰もが日常的に起こしてしまいます。

でも、そんな「かすり傷」が死ぬほど痛いときが、人生にはあります。

むしろ、かすり傷で死んでしまった人も、歴史上少なくありません。

偉人しくじり図鑑 25の英傑たちに学ぶ「死ぬほど痛い」かすり傷(河合敦著)秀和システム
異性関係で失敗すると表舞台から干される

異性関係で失敗して、表舞台から去る人は後を絶ちません。清々しさや夫婦円満をアピールしていた人にとってはなんとも致命的です。戦国時代にも、異性関係で評判が地に落ちた武将がいました。名前を薄田隼人正兼相(すすきだ はやとのしょう)といいます。

この御仁、じつは失態がきっかけで名を残した人物なのです。

大坂冬の陣で、橙武者(だいだいむしゃ)という言葉が大坂城中で密かなる流行語となりました。橙は色鮮やですが食用にはならないことから、正月飾りにしかつかえません。それゆえ、見かけは立派だが、何の役にも立たないという意味で、橙武者という言葉は使われました。

徳川幕府と決裂した大阪城の豊臣氏は、冬の陣の直前、幕府軍の来襲に備え、多くの砦を急造して兵士を入れました。その最大のものが、木津川のほとりの博労淵砦(ばくろうぶちとりで)であり、砦の大将に選ばれたのが兼相でした。砦には、700の兵が籠もり、木津川からのぼってくる幕府軍を警戒しながら、偵察に来た敵兵を撃退していました。

博労淵砦を奪ってしまおうと計画したのが、幕府方の蜂須賀至鎮でした。至鎮は、博労淵の周辺より避難してきた商人から、砦の守備があまり堅牢でないことを聞きていたのです。その後、博労淵は難なく幕府方の手に落ちました。

この時、あろうことか守備隊長の薄田兼相は砦にいませんでした。驚くべきことに、前夜から近村の遊女屋に入り浸っていたのです。大将がそんなことでは、守備兵たちの志気が上がるはずもありません。

兼相が駆けつけたときには、すでに砦は敵の手中に落ちていました。この日から兼相は、橙武者と陰口を叩かかれるようになります。

女にうつつをぬかした隊長

兼相は橙武者という嘲笑を受けながらも、冬の陣の後も大坂城に残ります。講和によって堀を埋められた大坂城は裸城となり、豊臣方の重臣たちの多くが幕府方に寝返って城を撤退していました。そのため、当初は十万人いた城兵もだんだんに逃げてしまい、夏の陣のさいには、半数近くに減っていました。

豊臣氏を待っているのは、勝ち目のない戦です。

そうした現状を知りつつも、なぜ、兼相は城内に踏みとどまったのでしょうか。河合さんは次のように分析しています。

「それは、純粋に豊臣秀頼に対する忠義心からなのか――。私は、そうではないと思う。この男は、次の戦いで、自分の汚名を返上できることだけを切望して、城内に残留したのだと考える」(著者の河合敦さん)
「自分の雄姿を世間に知らしめ、博労淵での汚名を晴らそうとしたのであろう。この男には、己の生命より名誉回復のほうが、ずっと大切だったのである。
絶望的な戦いにあえて立ち向かってゆくことで、彼らは自分の名が後世に残ると信じたのである」

河合さんは、そう続けます。

その後、10万に膨れあがった幕府の大軍は、兼相の部隊に押し寄せてきます。その人数は30人程度にまで減っていました。

「このときにあって兼相は、歴史に残る奮戦をする。それは、彼の活躍を記した多くの古記録が証明している。よほどの働きをしなければ、あそこまで多数の書に兼相の戦いぶりは記録されなかったはずだ」(河合さん)

まさに鬼神のごとき戦いぶりでした。

最後に討たれてしまうものの、兼相はそれで本望だったのでしょう。橙武者の汚名を挽回したからです。

いまの時代も異性関係で凋落する人は数知れませんが、挽回させることの難しさを実感せずにはいられません。本書には日本史に名を残す25人のエピソードがまとめられています。

(尾藤克之)