世界最大のプロレス団体・WWEでのデビューを控える、日本女子プロレス界の至宝・Sareee(24)。

14歳にして井上京子(51)率いる女子プロレス団体『ディアナ』の門を叩き、順調にキャリアを重ねてきたかに見えた彼女だったが、21歳の誕生日を前に“退団”という大きな決断をする――。

<前編:「机がバキバキに」6歳のSareeeがプロレスに魅せられた瞬間 から続く>

’17年2月、「女子プロレス界のトップになりたい」というステートメントでディアナを退団することになったSareee。

当時の『週刊プロレス』(17年3月22日号、ベースボールマガジン社刊)のインタビューには、次のような発言が残されている。

《京子さんも伊藤さん(薫・49)もトップを取ったことのある選手。でも自分はまだトップ取ってないし、これからの目標もある……もちろん伊藤さんと京子さんも倒したい相手ではあるんです。ディアナにいたらいつまでもそれは遠くなってしまうと思って》

団体の中に同期生も中堅世代もいないSareeeは、しのぎを削れる同格の選手の存在がなかった。団体でトップを取るためには、ほかの選手に勝って上がっていくしかないが、団体内にはSareee以外はベテラン勢しかいなかった。彼女たちには“団体の顔”として進めるべき路線があり、そのベクトルはSareeeとの世代闘争には向いていなかったのだ。

「他団体を見てみると、同期デビューの世志琥(27)はベテランと直接闘って勝ち、発言権を勝ち取って……自分たちの闘いをやりたいようにやらせてもらっているように見えたんです。振り返って、自分は京子さんや伊藤さんというベテランが上にいる。先輩たちはプロレスを極めてきた選手です。しかし『これから理想の試合を追究してやっていきたい』という自分の思いをリングの上でぶつけて、突き破ることができなかったんです……」

若さも手伝ってか「腐ってしまう気分もあった」のだと吐露する。

「ディアナをいまの自分の立場で変えるのは無理だと。

『いつまでたっても、先輩たちを振り向かせることはできない、空気を変えられない』とあきらめてしまっていたんですね」

20歳、明確にステップアップしたいSareeeには、焦りがあった。

「結局、団体を出ることになったんです。でもそれは、下積みしてきた自負があるから、できたことだと思っています」

アントニオ猪木(77)の人生訓よろしく、道に迷ったとき、悩んだとき、ここでSareeeは「一歩踏み出す」ことにした。そして「経験に勝るものなし」とこれも猪木が言うように、後に大きな収穫となってSareeeに返ってくることになる。

だが当時は、そんな見返りなど期待しない、Sareee20歳の冒険だった。

17年3月、世志琥らがいる団体「SEAdLINNNG(シードリング)」に参戦することとなったのだが……。

「新天地のシードリングでは、同世代同士でバチバチやりたいと思いました。リングの上で、勝負として鎬を削ることで、プロレスの凄みを表現したかった。そのためには、お互いライバルでなければいけないし、つねに競っていたい。でも、シードリングは団体です。みんなで作り上げようという協同意識が優先でした」

結果的に、このときのSareeeの思いは空回りし、「ハンパに仲良しこよしになってしまった」のだと振り返る。

「自分はバチバチやりたかったんですが、それは自分自身の理想論であって、ディアナも『団体ありき』でした。

だから『着実に運営すること』を優先に考えていたんだと思うし、いま考えれば、それも当然だと思う。そのシードリングの半年で、今度は大人として考えましたし、勉強もしました。そんな半年間を経て、自分の肉付けにはなったんだと思っています」

17年10月の試合を最後に、わずか半年間在籍しただけでシードリングを去り、ディアナに復帰したのだ。そして結果的に、この半年間の冒険がSareeeを大きく成長させ、母港・ディアナのリングに化学反応を引き起こすこととなった。

「一度出て、戻って来たときに気づいたのは、自分の中にあった『ディアナ愛』ですね。育ててくれた団体への感謝もあった。それからは、京子さんにも、伊藤さんにも、自分の考え、意見を遠慮せずに言うようになりました」

大先輩たちとぶつかり合うことを端からあきらめ、同志がいると思って移った団体でも、独りよがりの理想が宙に浮いてしまった。実家に戻ることを許された“出戻り娘”は、退路を断つ覚悟を決めて、はじめて本音で、先輩たちに向き合った。

「そしたら……やっと対等の選手として扱われるようになった感じがしたんです。以前はなかったミーティングも開くようになりました。『自分も入りますので、ミーティングしてください』とお願いしたんです。風通しがよくなりましたね」

そして、自分より下の次世代育成にも、Sareeeのアイデアで着手することに。

「新人を3人入れることになりました。練習もぜんぶ『自分がみます』と申し出て。京子さんも『Sareeeにぜんぶ任せるから』と言ってくださったので、自分は休みも取らず指導に当たりました」

Sareeeがイチから育てた選手のひとりが、19年10月に中1でデビューした、ななみ(14)だ。

「入門当時は小学5年生、12歳でした。試合前にプロレス教室のような感じでお客さんを相手に初歩練習をする時間を設けていたんですが、彼女はそこにお父さんと一緒に来ていて。プロレスに興味があるということだったので、そこから練習に参加するようになりました」

ディアナは現在も、一般の人向けのスクールを「プロレス道場」として開催しているが、それはSareeeが始めたプランが結実したひとつの形だ。

「ディアナに戻って、自分も意識が変わりました。外に出てみて、自分に足りなかったことに気づいた部分もありましたし、責任感が出てきて『ここが自分の居場所だ!』と思えた。そして、先輩に教わってきたことの意味もわかってきたんですね……」

先輩たちにも、臆することなく意見を言うようにしたのには「意図したことでもあったんです」と振り返る。

「先輩たちには『いまのプロレス』はわからないですよね。先輩たちは、現在進行形のプロレスをぜんぶ見ているわけではない。ハッキリ言えば『昔のプロレスしかわかってないんじゃないの?』と思うときもあります。

だから、グッズ販売の仕方、新人の『いまのコ』感覚……雑用も、いまのコにできる仕様にしました。『いっしょにやること』が、いまのコには大事なんです。『やらせる』のではなく、『いっしょにやろう』と私は心がけましたね。先輩たちには、自分と下のコが『近すぎる』と言われていたんですが、自分が新弟子のころは相談できる先輩がいませんでしたので、自分は『相談される先輩になろう』と思いました」

そうして、「帰ってきたSareee」が着手した種々の改革が実を結ぶにつれ、今度は回りまわって「リングの上」が弾け出すようになる。

それは「出藍の誉れ」=弟子が師を超えることへの正面からのトライである、今度こそ。

「はい、ズバリ、井上京子さんに勝つこと……ベルトを巻いて、ディアナの中心に立ちたいと思いました。私がやりたい『プロレス界のトップになること』は、ディアナの顔としてでなければできない。そのためには、ディアナのチャンピオンにならなければいけない。でも、京子さんには簡単に勝てるものではない。だから……何度も挑戦しました」

そして18年7月22日、カルッツかわさきでのWWWD世界王者・井上京子へのチャレンジマッチでのこと。得意技である裏投げを12連発し、とうとう3カウント・フォールを奪うことができた。

「もちろん京子さんに勝った瞬間はすごくうれしかったんですが、同時に『ここで喜んで立ち止まってはいけない』という思いも、すでにあった。

そこが、自分の挑戦のスタートでしたから。だからこそ、次の防衛戦にアジャコングさん(50)を指名したんです……」

アジャコング。言わずと知れた歴戦の強者は、近年では「上を目指す」次世代選手の前に山のごとく立ちはだかる“巨大で強大な壁”としても圧倒的な存在感を示してきていた。

いわば、Sareeeが頂点を目指すサクセス・ストーリーを歩んでいくには、避けては通れない最大の“鬼”たる存在だった。

「最初のシングルマッチ(18年12月、新宿FACE大会)では、ホント、ボコボコにされて敗れ、WWWD王座初防衛に失敗してしまいました。すぐリマッチを要求したんですが、アジャさんから逆に『ノールール・マッチ』を条件に突き返されたんです」

フリーハンドでも強すぎるアジャだが、ときに一斗缶で対戦相手の脳天を打ち抜く凶器攻撃も、あえてする。 “ノールール”では、これらを使い放題のデスマッチとなるのだ。

19年2月、新木場ファーストリングで開催された試合は、Sareee史に残る凄惨な内容となった。

「どの攻撃でかはわかりませんが、私はいつのまにか頭頂部から出血していて……。動脈を切ったようで、大流血しながら闘ったんです。その試合でも敗れ、結局、病院で8針縫いました」

Sareeeはそう言いながら「でも」と言って、あっけらかんと話を続ける。

「京子さんや伊藤さんから『骨折はケガじゃない』って言われ続けて、刷り込まれていますから(笑)。

京子さんはかつて、肘の関節が外れてしまっても試合中に入れ直して、また闘っていましたし、欠場もしなかった。伊藤さんも、膝を切って30針も縫っているのに翌日また試合していました。自分だって……」

というとSareeeはすこし自慢げな笑みを浮かべて、デビュー前のことを振り返る。

「プロテスト(11年2月10日)の際、前日の練習で背中の骨にヒビが入ってしまったんですが、スクワット1千回こなしました。肘を脱臼したときも肘をテーピングして出場したんですよ。伊藤さんには『出たいなら練習も休むなよ』とダメ押しもされた(笑)」

そして19年、一気に飛躍することとなった年の4月16日には、デビュー戦の相手である里村明衣子(41)とのシングルマッチに臨み、最高レベルの技術と意地の攻防を繰り広げた。最後は得意の裏投げを連発しての片エビ固めで、ついに里村から初フォールを奪った。

「自分のやってきたことは間違っていなかったと思えた瞬間でした。新人時代、里村さんにお会いすると毎回のように『サリーは“そのまま”でいてね!』と優しく笑顔でおっしゃってくださった……そんなことが思い出されました」

そしてわずか1カ月後の5月12日には、アジャから初勝利してWWWD王座を奪還すると、翌6月8日にはセンダイガールズ世界王座を同世代のトップランナー・橋本千紘(28)から奪取し、2冠王に。

その後、プロレス界の世界的スーパースター・トリプルH(51)からのオファーで、急転直下のWWE移籍話が具体化していくのである――。

<後編:「ジャガー横田さんに夢託され…」Sareee語るWWE入りの決断 へ続く>

(取材・文:鈴木利宗)

編集部おすすめ