2月13日、宮城県と福島県を中心にふたたび大きな地震が日本をおそった。一部で震度は6強を記録し、停電や地面が倒壊したところもあった。

東日本大震災から10年を迎えようとする1カ月前のことだった――。

ふたたび羽生結弦(26)の故郷を襲った地震。実は、羽生の“ホームグラウンド”も被害を受けていた。地震から一夜明けた14日、宮城県仙台市にあるスケートリンク「アイスリンク仙台」は公式HPでこう発表した。

「地震による影響で建物に損傷が発生したため、安全確認が取れるまでアイスリンク仙台の営業を中止させていただきます」

アイスリンク仙台の関係者は被害状況をこう明かす。

「建物自体が古いので、一部で塗装の剥がれや建物に亀裂が入っていたそうです。営業休止中も、ふだん貸し切りで利用しているスケーターなどには場所を提供していたと聞いています。21日には無事、営業を再開したそうです。羽生選手もリンクの被害状況を聞きつけて、とても心配していたようです」

羽生とアイスリンク仙台の出合いは今から22年前にさかのぼる。’99年から同リンクに通い始めた姉の影響を受け、4歳でスケートを始めた羽生。日々、練習に明け暮れ、’04年10月の全日本ノービスでの優勝を皮切りに、めきめきと実力をつけ各大会で次々と優勝していく。’11年2月には四大陸選手権で初出場ながら銀メダルを獲得するまでに。

しかしその直後、思いもよらぬ試練が羽生を襲う。震災だ。

「震災が起こったとき、羽生選手はちょうどリンクで練習をしている最中で、スケート靴を履いたまま外に避難したそうです。リンクは大きな被害を受け、長期間の営業休止を余儀なくされました」(前出・リンク関係者)

震災で自宅マンションが全壊し、練習場所も失った羽生。しかし、逆境をバネに国内の練習場を渡り歩き、’12年4月からはカナダに拠点を移し研さんを積んでいく。

そして、’14年のソチ五輪、’18年の平昌五輪で2大会続けて金メダルを獲得するという偉業を達成。日本中に大きな希望をもたらすこととなった。

■“原点”リンクへの寄付総額は3千万円!

世界を代表するフィギュア選手となった羽生だが、その心は常に故郷とともにあった。

「’11年7月に青森でリンクの営業再開を聞いた羽生選手はとても喜んだそうです。羽生選手はこれまで出した2冊の自叙伝の印税全額をアイスリンク仙台に寄付しています。その総額は3千万円ほどにのぼります。

’12年から始まった寄付は今も続いており、昨年、リンクが新型コロナウイルスの感染症対策として導入したサーモグラフィーも羽生選手の寄付金によるものだそうです。

羽生選手のことですから、今回の地震を受けて、近いうちにまた寄付をすると思います」(スポーツライター)

羽生は被災地への支援も常に呼び掛けていた。’15年に神戸で開催されたアイスショーではこう語っている。

「これからも、みなさんが東北のみならず津波の被害を受けた茨城県や千葉県のことも忘れずに、支援活動を続けてもらえたらと思います」

西村教授も羽生の“地元愛”についてこう明かす。

「アイスショーを見に行ったりしたときに、控室に会いに行くと、いつも仙台銘菓の『萩の月』が置いてあるんです」

昨年はコロナ禍で思うような練習ができず、一時は試合出場も危ぶまれていた羽生。そんな窮地に手を差し伸べたのが、“故郷のリンク”だった。

本誌は昨年9月、数回にわたって家族の送り迎えで深夜に「アイスリンク仙台」を訪れる羽生の姿を目撃している。

「羽生選手が練習するとなると、多くの人が集まってしまいます。そこで気心が知れて、深夜も練習できるアイスリンク仙台を選んだのでしょう」(フィギュア関係者)

リンクの支えも受けて、羽生は今シーズンの初戦となった昨年12月の全日本選手権で見事、5年ぶりの優勝を果たした。

■「羽生君は私たちにとっての希望の光」

深い絆で結ばれた羽生とリンク。「アイスリンク仙台」の支配人はこう語っている。

《羽生君はここの、私たちにとっての希望の光です》(『Number』’21年2月4日号)

地震でまたしても練習拠点が一時休業に追い込まれた羽生。約1カ月後の世界選手権を目前に控えた今、大きな痛手のはずだ。

それでも、羽生はもう一度“希望の光”になるべく、すでに動きだしているという。自身もかつて「アイスリンク仙台」の前身リンクでスケート教室を開いていたフィギュアスケート評論家の佐野稔さんは言う。

「“仕上がっているからリンクでの練習はやらなくていい”ということはありえません。羽生選手は、現状を受け入れて、できることを最大限に模索していると思います。前回の震災による大きな痛手が羽生選手を作り上げたといっても過言ではありません。“逆境には負けない”という意思がありますし、今回もやり遂げると信じています」

そして、故郷を背負った羽生は“宿願”に向かって突き進む。

「3月の世界選手権ではライバルのネイサン・チェン選手(21)と2年ぶりに直接対決します。2月初頭に米国の大手データ会社が’22年の北京五輪のメダル予想で、金メダルはネイサン選手、銀メダルは羽生選手と予想しました。

しかし、羽生選手はそうした下馬評も燃料にして、“世界選手権では絶対にネイサンに勝つ!”と意気込んでいるといいます。新プログラムに変えた今シーズンは、今まで以上に演技の出来もよく、ミスさえしなければネイサン選手に勝てる可能性は大いにあると思います。そして勝つことで、必ずや被災地にふたたび希望の光がさすことになると彼は自覚しているのです」(前出・スポーツライター)

羽生を突き動かす原動力には、リンクへの思いもあるようだ。

「アイスリンク仙台はこれまで何度も営業休止を経験してきましたが、そのたびに乗り越えてきました。

逆境に打ち勝つたびに成長してきた羽生選手としては、そんなリンクに自身の姿を重ね合わせているのかもしれません」

’14年6月に「アイスリンク仙台」で東日本大震災復興ソング『花は咲く』にのせてスケートを披露した羽生。その際、リンクへの思いをこう語っていた。

「自分の“ふるさと”であり、生まれ育ったまちということでもあるのですが、このリンクということだけでいえば、僕のスケートが生まれた場所。羽生結弦というスケーターが生まれた場所」

自らの悲願、そして何より“原点”であるリンクのために、羽生はふたたび“王者の舞”を見せてくれることだろう――。

「女性自身」2021年3月9日号 掲載

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